2016年5月27日

今週末、どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

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<洪鐘参道脇の流水>

今週末(5月28、29日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

5月28日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めの20分で足の組み方などを丁寧に説明し

します。お子様、親子でも安心してご参加いただけます。そのあと、10分の坐禅を2回、

最後に5分の質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)
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<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

 5月29日(日)

●8:05~9:50 日曜坐禅会 場所 大方丈

8:05~8:20 坐禅

8:30~9:30 横田南嶺老師による『伝心法要』という禅の語録の提唱

9:30~9:50 坐禅(*提唱後の坐禅が、新たに加わりました。)

という内容です。初心者の方でも、最初に足の組み方などを説明しますので、

 安心してご参加いただけます。
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<日曜坐禅会の風景>

 皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2016年5月25日

「腹(肚)を据える」 一日一語106

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<舞子アジサイ>

横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 先日、東電会長の数土先生と話をしたという話をしましたが、

今の人は、腹(肚)が練れていない、腹(肚)を作らないといけない

と仰せになっていました。

 もちろん、私たちは、こうして坐禅をして気海丹田に気力を込める

ことをしておりますが、もちろんこれも大事なことではあります。

しかし、数土先生が言われるには、これだけではだめで、もっと

古典を学ばなければならないと言われています。

 数土先生は、NHKや東電の再建という難事業に取り組んで

いらっしゃいます。その先生の話というのは単なる、経営の話だけ

ではなく、中国の古典をほとんど読破していられ可と思われるような

内容でした。

 もちろん、日本の様々な伝記や歴史もよく読んでおられる。特に

先生が強調をされたことは、今の人たちは、それが経営者であろうと

何であろうと、学(がく)が足りない。学ぶということが足りない。

 たとえば、中国の古典をもっと読破すべきだと言われていました。

先生は、『論語』なんかは、ほぼ、暗唱をしているくらい読んでいる。

また、『史記』『三国志』『十八史略』『韓非子』などの中国四千年の書物を

読破すれば、今、こうして困難な局面に直面しているからといっても、

似たような例というのは、古典の中にいくらでもあると言われています。

 さらに、それらをしっかり学んでおれば、動ずることはないのである。肚力と

いうのは単に腹(肚)に力を入れているだけではなくして、古典を深く

学べと。

先生は、また、激務をいていながらも、毎日3時間は本を読む、読書の時間に

あてているとおっしゃられていました。夜10時から1時までは、ただ、自分で

本を読む。

 どうも私たち禅宗は、文字の中に求むべからずとか不立文字という言葉を

都合の良いように利用して、学ばない、無知蒙昧がまかり通っているように

思われます。

 臨済禅師は、読んで読んで読み抜いた末に「無事」という心境に達した。

『臨済録』の中の言葉にありますように「腹熱し心忙がわしく、

奔波して道を訪う(気はあせり心は落ち着かず、諸方をかけ回って道を求めた)」

と実に赤裸々に表現されています。

 あらゆる経典をあらゆる書物を読破してやるべきことをなして

夜も眠らず坐り抜いて、初めて安らかな「無事」という心境が得られたのです。

 私たちは、もっと学ばなければならない。もっと、坐らなければならない。

もっと、求めなければならない。そうしなければ、本当の「無事」は得られない

のであります。

2016年5月24日

「軌道修正」 一日一語105

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<ドクダミ>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

『臨済録』に「你(なんじ)解得すれば、即ち他人を軽蔑す。勝負の修羅、

人我の無明、地獄の業を長ず」という言葉があります。

 一所懸命に勉強することは尊いことですが、たくさん勉強をすると

かえって他人を軽蔑する人がいます。これが難しいところです。

 軽蔑はしてはいませんと言いながらも、一所懸命に学んでしまうと

自分はこんなに学んでいるんだ、あなたがたは知らないでしょうという

ものがどこかに残ってしまう。これが本当に難しい。

 何かをやると、どうしてもこんなにやったんだということがちらりと

覘いてしまう。それが覘いてしまうといくら、お説教をしても人には

伝わらなくなってしまいます。

 人にいくら伝えようとしても何も伝わらない場合もあれば、

何も伝えようとしていなくても、人に伝わっている場合もある。

 いくら学んでも、「こんなに学んだんだ!」では、「勝負の修羅」であります。

 いくら、専門道場で何年と修行をしても、どこかに「自分はこんなにやっているんだ!」

というものが残っていると、やはり、御檀家さんなどに法話をしても伝わらないのでは

ないでしょうか。

 「おれは、こんなにやっているんだ!」というようなことが無明です。

臨済禅師は、これが迷いの根本で地獄の業(ごう)を生ずると仰せになっています。

 普段から私たちは、常に軌道修正をしていかなければなりません。

何を求め修行をしているのか。何を目指して修行をしているのか。

常に軌道修正が必要であります。

 そうでなければ、せっかくの修行も勉強も地獄の業を作っているだけに

なりかねません。

2016年5月23日

「罪障も尽く空(くう)である」 一日一語104

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 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 『臨済録』に「「文殊は剣によって瞿雲(ぐどん・・・お釈迦様)を殺さんとし」

という言葉があります。この言葉のもとは、『大宝積経』というお経の中に出てくる話から

きています。『大宝積経』の中では、500人の修行者たちが一所懸命に修行をして

一つの悟りを得る。

 宿命通という自分の過去世がどういうものかわかるという悟りを得た。ところが

この過去世がわかったばかりに、人間の前世を見ると、実は、お互いひどいことも

やっている。人類の歴史というのは、お互い、殺し合いの歴史のようなものです。

 遠い過去の間を見れば、様々な人を殺めたり、苦しめたりと、ずいぶん、

ひどいことを繰り返している。そんなことまで全部わかったとすると、今度は

罪の意識に苛まれてしまった。「自分は遠い過去においてこんなにひどいことを

繰り返してきたのであるのか」と500人の仏弟子が気落ちをしてしまった。

 そこから先はもう修行が進まなくなってしまい、そこで、お釈迦様が

方便をもって、文殊菩薩に「自分をこの剣で斬れ」と命じました。

そこで、文殊菩薩もお釈迦様と話が通じているから、剣を振りかざして

お釈迦様に斬りかかる。そこで、お釈迦様は、説法をしました。

 たとえ、この文殊菩薩が私を斬ったとしても、それこそ、

円覚寺開山・無学祖元禅師の臨剣の頌ではありませんが、「人空法また

空」(自分も空でありそとの世界のあなた方もまた空である)であります。

 「珍重す 大元三尺の剣  電光影裏 春風を斬る」(あなたは、三尺もある

立派な長剣を振りかざしておられるけれども、それでたとえ私の首を

斬ったとしても、稲妻の光が春風を斬り裂くようなもので、ただ一瞬のことに

しぎじ後には何も残らないだろう)という頌と同じことでありまして、

たとえ、この文殊菩薩が刀をもってお釈迦様を斬ったとしても斬る側も

斬られる側も尽く空(くう)である、何の実体もありはしない。

 なお、幻が幻を斬るようなものである。何の罪も咎も残りはしないのである。

とこうお釈迦様は、説いている。すると500人のお弟子たちも罪の

得るべきなし、罪障も尽く空(くう)であると気が付いて悟りを開くことが

出来たという話が『大宝積経』にあるのです。

 「罪障も尽く空(くう)である」これを誤って解釈して

何をやってもよいというように思われても困ります。

 しかし、この「罪障も尽く空(くう)である」は、今、現在において

よく噛みしめ、味わなくければならないところであろうかと思います。

2016年5月22日

空(くう) 一日一語103

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<五色柳 白露錦>

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 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 空(くう)という言葉は、理解をするのに困難な仏教用語です。

 よく実体がないと言います。たとえば、野菜のカブで言えば、これがカブである、

最初からカブである、未来永劫カブであり、それだけでカブになるというものは

ありません。

 カブを植える人があり、土があり、水があり、お日様の光があり、様々なものに

よって、仮にカブというものが表れている。いや、むしろ、仮にカブと名をつけて

いるにすぎない。

 本来は、カブでも何でもありはしない。大きな大自然の働きからそのような

ものが生まれてきている。

 『金剛経』というお経は、空(くう)という言い方自体を使わずに

「世界は世界にあらず、ゆえに世界と名づく」と表現しています。

 カブはカブではない、ゆえにカブと名付けるということです。

こういう言い方で空というものを表している。特定のものがある

わけではない。常に移り変わっている。何かの条件とそれ独自では

存在しえない。

 常に他の条件と相助け合いながら、相依相関、相より相関わりながら、

その関係において成り立っている。こういうのが空という概念です。

 あらゆるものは、様々な原因と縁が仮に結ばれたものである。

それが空であります。常に移り変わりもので実体があるわけではない

ということがわかります。

 心もこういう空なるものの最たるものでありましょう。これが心であると

不変なるもの、固定しているもの、固いものがあるわけではない。

 私たちのこの六根という感覚器官があって、そして、見えるもの、

聞こえるものがあって、それに感情というものが働いて、好き嫌い、

綺麗汚い、赤青などと働いて、仮に立ち表れているのが心です。

 炎のようなものだと思います。燃えるものがあって、酸素があって

それに発火して、仮にポッと火が燃える。

 心というものは、まさしく空(くう)であるから、その中には

本来、何も汚れも、煩悩として執着、まとい続けるものはありはしない。

 一切の存在、森羅万象もこれまた、仮にそのような姿が立ち現われて

いるだけであって、何ら実体があるものではありません。

 強いて言えば、丸ごと仏心という大きな鏡のようなものに

その表面に映ってる様々な映像にしか過ぎません。これが空(くう)という

ものです。

 こういうことがわかれば、映像に振り回されなくなって、迷いの世界から

はるかに離れ、目で見えるもの、耳で聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、あるいは、

心に映り出された映像に、もはや、心が振り回されることはない。この通り、

このまんま、坐っているまんまで、安らでいる様子、これを「無事」と言う。

 どこかに行かなければ安心しないというのではない。ここにいる、

この一呼吸で安らいでいる様子を「無事」と言うのです。

 迷いや分別は、皆、この映像のようなもの、あるいは、空に浮かんだ

雲のようなもの、鏡に映った像のようなもので、何ら振り回されることは

ないのです。

2016年5月21日

「迷人は方によるが故に迷う」 一日一語102

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<升麻(しょうま)>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 迷いの世界、悟りの世界というのは、私たちの心が作り出したものです。

仏教の大事なところは、決して、「迷いの世界から悟りの世界へ行きましょう!」

という話ではなくして、迷いも悟りもないというところに気が付くことで

なくてはならいないものでありましょう。

 『大乗起信論』に「迷人は方によるが故に迷う、もし、方を離れるれば、

迷うことあることなきが如し」という言葉があります。

非常に面白いたとえの言葉です。道に迷うということは、方角があるから

迷うのである。西に行こうと思いながら、東の方向に行ってしまうと

それから、西はどこやらと探さなければなりません。

 どこどこに行きたいと住所や番地を探して見つからないと言って迷う。

しかし、その悟りということは、その番地や方角を明らかにして目的地に

至るということが悟りなのではない。「本来、方角も何もなかった!

住所も番地も、それは人間が勝手に作ったものに過ぎない。

「方を離れるれば、迷うことあることなきが如し」方角というものが

そもそもなければ、迷いようがない。どこどこへ行こうということすら

必要がない。「西に行かなければいけない」「東に行かなければいけない」

という一念を起こすから、迷いになる。

 西も東もないということに気が付いて、ならば、ここにいるものが

このままで迷う必要がなくなる。仏も法も同じ道理であって

仏だ衆生だと一つの方角をつけてしまうものですから、どのように

仏の道に行ったら良いのかと言って私たちは迷う。

 仏というのは、その仏に到る道筋をつけて達成をすることではありません。

そんな、区別をする必要はない。こう気が付いた時に一歩も動かずして

悟りの中にあったというのが本当のところでありましょう。

 ただ、こういう教えは、前にも「無事」の話をしました時に言いましたが

最初から「どこにも行く必要はない!、何も求める必要はない!」とこう

言われても、これまた、取りつく暇もなくなってしまいます。

 そこで、最初は、あえて方角を立てて、あえて、道筋を作って

一所懸命にそれに向かって努力して努力した結果、実は「どこにも

行っていなかった!」のであると気が付いてこそ、初めて、納得が

いった、解脱したということが言えるのでありましょう。

2016年5月20日

今週末、どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

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<甘茶>

今週末(5月21、22日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

5月21日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めの20分で足の組み方などを丁寧に説明し

します。お子様、親子でも安心してご参加いただけます。そのあと、10分の坐禅を2回、

最後に5分の質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)
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<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

5月22日(日)は、 

●9:00~11:00 日曜説教坐禅会(円覚寺派布教師による法話と坐禅) 場所 大方丈

 老若男女が集うお説教と坐禅会です。初めての方も多く参加されています。

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ー日曜説教坐禅会が行われる大方丈ー

2016年5月20日

「頭の人、胸の人、腹の人」 一日一語101

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<洪鐘参道>

横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 岡田虎二郎という方は、「頭の人、胸の人、腹の人」ということを言われています。

頭の人というのは、これは、頭でいろいろとものごとを考える、学校で良い成績を

おさめる、いろいろと頭の中に知識を詰めてきた人のことです。

「胸の人」の胸と言うのは、これは感情を表すのでありましょう。

 この岡田先生の「頭の人、胸の人、腹の人」という言葉を思い出したのは、

昨日、東京電力会長を務めている数土さんというお方のお話を聞きながら

勉強会をしておりました時です。

 数土さんは、東京電力といいましても、あの原発事故があった後に

安部首相から東電の再建と原発の収束をはかる為に会長に任命された方で

経営の世界では、たいへんな人らしいのであります。

 いろいろな話を聞いていて、経営の話であるから、私には、そう関わり

がないと思っていたのですが、聞いているうちに、なるほど、経営においても

今日、欠けているものは、腹の力であると数土さんは、言われました。

 数土さんが言われるには、それは、確かに一流の大学を出てたくさんの知識があり、

会社を経営したりして、そして、この頃の人は、非常に情にも厚い。

人に親切である。人当たりも穏やかであり、人に嫌われないように心配りもできる。

 しかし、欠けているのは、腹の力である。これがなければ、困難な局面、

難局を乗り越えていくことはできないと。この今日の教育において腹の力というものが

全く培われていない。そうであるから、いざ、大きなことに遭遇した時に

頭だけでは駄目であり、感情だけでも駄目、正しい判断ができない。

 果断なる決断、これは、私たち禅宗的、仏教的に申し上げるならば

真智、真実の智慧というべきもので、「こうあるべきだ!」と正しい判断

「こうなすべきだ!」という正しい智慧であります。

 岡田先生は「腹の人になれ」と仰せになっています。現実の少々のことでは

動じることがない。少々の批判をされてもなすべき判断をすることができる。

 これが肝腎なことであります。

2016年5月18日

管長 名古屋・日泰寺訪問②

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 記念撮影後は、僧堂をご案内いただきました。境内の北側にあるこの僧堂は、

曹洞宗が管轄しています。そして、曹洞宗認可の専門修行道場です。禅堂入口には、

「選佛場」の額が掲げられています。
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禅堂内。約60名が坐禅ををできる大きさで、持鉢(食器)がぶら下げてあるのが、

我々臨済宗とは違うところでした。
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大書院。なんと200畳の木造建築です。
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真舎利を日本に寄贈したラーマ5世像。
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いよいよ、真舎利のある奉安塔へ

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 奉安塔は、真舎利を安置するために大正時代に建てられ、仏塔の2階部分に

真舎利が安置されています。

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拝殿にて奉経。
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 奉安塔拝殿の前にあるお釈迦様と阿難尊者像。「クシナガラ」という題で

入滅されたお釈迦様を阿難尊者が嘆き悲しんでいる様子です。

2016年5月18日

管長 名古屋・日泰寺訪問①

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<山門>

 今日、円覚寺派管長・横田南嶺老師と円覚寺派の和尚一行は、愛知県名古屋市にある

日泰寺を訪問しました。覚王山日泰寺は、タイ王国から寄贈された真舎利(お釈迦様の本当のお骨)を

安置するために明治時代に建てられたお寺です。

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<境内の広さは、約4万坪>

 どの宗派にも属していない日本唯一のお寺で、19ある各宗派の管長が、三年交代で

務めています。

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<平成9年建立、高さ30メートルの五重塔>

 今年から、横田南嶺管長が住職となりましたのが機縁で、今回の団体訪問となりました。
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 責任役員などの和尚様方がお迎えくださり、丁重にご案内をしていただきました。
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 本堂に安置されている本尊は、タイの国宝であった金銅釈迦如来像です。

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 円覚寺一行は、本尊前で法要を務めさせていただきました。
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記念写真

管長 名古屋・日泰寺訪問②へ続く

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