よい条件を調える
「人は佛心のなかに生まれ、佛心のなかに住み、佛心のなかで息をひきとるのだ。
生まれる前も佛心、生きているあいだも佛心、死んだ後も佛心、その尊い佛心とは一秒時も離れない」
これは、朝比奈老師がよく仰せになっていた言葉です。
そして朝比奈老師は、
「ただ多くの人はそれに気がつかないのです。
悟るということは、新しいことを覚えることでなくて、前からわかりきっていたはずのことが、わからないでいて、それに気がついたことを悟るという。
忘れものをしたのを思い出したように これが悟りだと、お経にも書いてあります。」
と書かれています。
ここに「悟り」という言葉の意味がはっきり書かれています。
「佛心とわれわれとは、そういう関係なのです。
あなた方が間違っていたとしても、佛心のうえからいえば、ただその尊い佛心をそなえながら、佛心のなかで迷っているのです。
夢のなかで、ありもしないのに良いことに会ったと思って喜び、悪いことに会ったと真実に思って泣いたり悲しんだりするのと同じなのです。
いわば人間は手放しで救われている。
佛教は、これほど徹底した教えです。
だがこれが本当に、はっきり受け取られないと、夢がさめないと同じように、つまらんものだ、困ったものだという不安がたえない。
だから、佛教ではこの世のことを夢の世の中と云います。
いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ
うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす
この世を夢とみて、その浅い夢に酔ってはならんぞというのが、いろは歌の意味であります。
佛教はこういうものであります。
坐禅をするということは、人はそういう尊い心のあることを信じて、心を静かに統一して、心が落着くところに落着けば、自然に雑念妄想は遠のいてしまう。
狭い心もだんだん広くなり、ザワザワしていた心も落着き、暗い心も明るくなり、カサカサしていた心もうるおいが出てくる。
これは佛心を具えている人間として当然なのです。」
と説いてくださっています。
更に「井戸を掘る。
こういう地面でも深く掘ってゆくと必ず水が出る。
わずか掘って出るところもあり、深く掘らねば出ないところもある。
が、水に近づけば、必ずそのへんの土がうるおってくる。
坐禅も同様です。
精出して坐禅すると、自然に佛心の徳がにじんだところへはいっていく。」
と説かれています。
「そうありたいと思ったら、そうなれるように条件を調えていかなくてはダメなのです。
心を落着けたい、心を広くもちたい、ゆったりとしたうるおいのある心境でいたい。
誰でもカサカサしたり、 コセコセしたり、 ザワザワしたりする心持ちはいやだ。いやだと思ってもクセのある人は、すぐそうなりやすい。
そこで坐禅に心がけて、繰り返し繰り返ししていると、自然に心がゆったりとしてくる。落着いてくる。
つまり条件をそうもっていくと、自然にそうなる。
落着くようにもってゆけば、落着く。」
というのです。
このように良い条件を調えるのが坐禅であります。
また坐禅をするのにも良い条件を調えることが必要であります。
『天台小止観』にはまず五縁といって、五つの条件を調えることが説かれています。
それは、
持戒清浄=戒律を保ち、正しい生活をする。
衣食具足=適度な衣食で心身を調える。
閑居静処=喧騒を離れ、静かで心が落ち着く環境を調える。
息諸縁務=世間のしがらみや情報過多の生活から離れる。
得善知識=よい師や仲間を得る。
の五つです。
有り難いことに、修行道場に修行に来た時点で、この五つは自然と調えられています。
そのうえで、五欲を制御し、五蓋という五つの心を覆う煩悩を取り除き、その上で「調五事」といって、五つを調えることが説かれています。
その五つとは、食事と睡眠と身体と呼吸と心です。
坐禅の説明では、身体と呼吸と心の三つを調えると説明されますが、その前に食事と睡眠を調えることが説かれているのです。
これは大事なことです。食事を調える、そして睡眠を調える、その上での坐禅なのです。
それから坐禅をするにも条件を調えないといけません。
坐禅は体と呼吸と心を調えることですが、まず体を調えます。
具体的には、坐相という坐禅の姿勢をとります。
坐禅は両方の脚を股の上に乗せるという独特な方法で坐ります。
これが、近年イスの暮らしが多いためなのか難しい場合が多くなりました。
無理に脚を股に上げさせると、膝や足首を痛めてしまうことがあります。
特に膝を壊すと、あとあとたいへんなことになります。
やはり股関節をほぐして、可動域を広げてからでないと、膝をねじってしまうことになってしまいます。
そこで私もいろいろと体のことを勉強してきましたので、新しく入ってきた修行僧には、膝などを痛めないように、脚が組めるように、その条件を調える方法を教えるようにしています。
ひとり一人骨格や体の癖が違いますので、それぞれに合わせて指導しないといけません。
各自お寺の大事な跡取りの方が多いので、体を痛めないように慎重に指導をしているのであります。
またこうした指導をすることによって、自分の学びにもなるものです。
横田南嶺