臨済禅師のこと
今制からまた『臨済録』を読んでまいります。
また初心に帰って、馬防の序文から読み始めました。
臨済禅師については分からないことが多いのです。
その生涯のあらましについては、『臨済録』の塔記に書かれています。
岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の訳文を読んでみます。
「師、諱は義玄、曹州南華(山東省)の出身で、俗姓は邢氏であった。幼い時から衆にすぐれ、成人して後は孝行者として知られた。
出家して具足戒を受けると、経論講釈の塾に在籍して、綿密に戒律の研究をし、また広く経論を学んだが、にわかに歎じて言った、「こういう学問はみな世間の人びとを救う処方箋でしかない、教外別伝の本義ではない」と。
すぐ禅僧の衣に着替えて行脚に出かけ、まず黄檗禅師に参じ、次に大愚和尚の指導を受けた。
その時の出会いや問答は行録に詳しい。
黄檗の印可を受けてから、河北に赴き、鎮州城東南隅の滹沱河のほとりに臨む小さな寺の住持となった。
その寺を臨済と呼んだのは、この場所がらからである。」
というものです。
「行録に詳しい」という内容は以下のようなものです。
臨済禅師は、はじめ黄檗禅師の会下に在って、行業純一に修行していました。
この「純一」なることこそ修行の一番の要であります。
修行僧の頭にあたる首座が、臨済禅師のことをご覧になって、
「これは若僧だけれども、皆と違って見込みがありそうだ」と思いました。
そこで、ここに来て何年になるのかと問いました。
臨済禅師は「はい三年になります」と答えます。
首座は「今までに老師のところに参禅にいったのか」と聞きました。
臨済禅師は「今まで参禅にうかがったことはありません、いったい何を聞いたらいいのか分かりません」と言いました。
こういう所が純一なのです。
何を聞いたらいいか分からないという、純粋に思いを暖めていたのであります。
すると首座は「いったいどうして老師のところに行って、仏法のギリギリの教えは何ですか」と聞かないのかと言いました。
すると臨済禅師は言われたとおりに老師の所にいって質問しようとすると、その質問が終わらないうちに黄檗禅師に打たれてしまいました。
臨済禅師がすごすご帰ってきましたので、首座がどうだったかと聞きますと「私が質問する声も終わらないうちに打たれました、どうしてだかさっぱり分かりません」と言いました。
首座はもう一遍行ってこいと言いました。
また行くとまた黄檗禅師に打たれてしまいました。
臨済禅師が言うには「幸いにもお示しをいただいて参禅させていただきましたが、こんな有様でなんのことやらさっぱり分かりません。
今まで過去世の障りがあって老師の深いお心が計りかねます。
これではここにいてもしかたありませんからお暇しようと存じます」と。
将来臨済禅師と称される程のお方であっても修行時代はこんな時があったのです。
現代社会で、「仏法とはどういうものでございましょうか」と聞かれて、いきなり棒で叩いたら大変な騒ぎになるでしょう。
これは「仏法というのはあなた自身のことではないか、それに気がつかずに何を聞いているのか」ということを一番端的に示す方法だったのです。
火の神が火を求めるという譬話があります。
火の神が火をくださいと言ってきたら「あなたが火なのだから、他に求める必要はないでしょう」と言うしかありません。
大事なのは、「仏法の一番明確な教えは、今あなたがそこに生きていることだ、あなたが現に今そうやって質問していることだ、そうして聞いているあなた自身がすばらしい仏法の現れなのだ」と気づかせるということなのです。
最初は、臨済禅師もそれがわからなかったのです。
そして黄檗禅師の指示に従って大愚和尚のところにゆくと、大愚和尚がそのわけを説明してくれました。
「なんと黄檗は親切だなあ。あなたに対してそんなに親切にしてくれたのか」と言ったのです。
それまでいろんな学問研究をしたけれどわかっていない臨済禅師に対して、さらに言葉で示したならば、もっと迷ってしまうかもしれません。
臨済禅師にしてみれば、知識や言葉はもう十分過ぎるぐらい学んでいるのです。
そこで必要なのは言葉ではなかったのです。
「あなたが一番明らかにしなければならないのは、自分自身が仏であるということだ。そこに気がついたらどうだ」という気持ちで、黄檗禅師はあえて打ったのであります。
これが最も端的な方法だったのです。
そんな臨済禅師の話をして雨安居を開講したのでした。
この春に入門した修行僧にとっては、こんな問答を読んでもまだまだ何の事やら分からないと思います。
だんだんと修行するうちにはっきりとしてくるものです。
『臨済録』で開講しましたものの、いきなり『臨済録』ではやはり難しいので、まずは坐禅の基礎から学んでゆこうと思っています。
早いもので、こうした開講を務めるようになってもう二十五年になりました。
はじめの頃は随分と緊張していたものですが、この頃はなんということなく行うことができるようになったものです。
慣れというのは、良い一面もありますが、恐ろしい一面もあります。
慣れることは大事ですが、慣れてもいけないと言い聞かせながらの開講でありました。
横田南嶺