担板漢
老師の頂相をかけてお経をあげました。
堯道老師は「毒狼窟」という室号をお持ちでいらっしゃいましたが、その頂相を拝見しても、眼光鋭くいかにも「毒狼」という名の通りだといつも思います。
老師の略歴は、『円覚寺史』にあります。
明治五年十二月八日島根縣簸川郡に生る。
十三歳春慈雲寺(後松江の圓成寺住)石倉主鞭に得度、松江萬壽寺大航、井山寶福寺九峯、圓覺洪嶽、松島瑞巌寺南天棒鄧州、瑞龍禪外、虎溪毒湛等に歴參、洪嶽に嗣法す。
普應寺、東慶寺、關興寺、浄智寺に住職、大正五年六月圓覺僧堂師家、大正九年一月より昭和五年五月まで管長、六年六月渡米東漸禪窟師家、七年一月歸國、久保山天池庵住職、十年六月―十五年六月再び管長、爾來藏六庵退隱、昭和卅六年四月十七日示寂、骨清窟に塔す。壽九十一。嗣法別峰宗源。自歷畫傳『擔板漢』」とあります。
最期のご様子について朝比奈宗源老師は『獅子吼』の中で次のように書かれています。
「戦時からずっと山内蔵六庵に閑栖していられた毒狼窟・古川堯道老師は、昭和三十六年四月十七日、忽爾として遷化された。
あえて忽爾としてというのは、老師は数え年九十歳になられ、旧冬以来いくらか衰えは見えたが、その気力はさかんであり、周囲にある者はみなまだ当分は大丈夫であろうと思っていた。
現に御遷化の前日十六日の日曜には、いつもの如く居士数氏のために提唱をされた。
もっともその折も居士の一人がこたつにやすまれたままで結構ですというと、「ねていて提唱ができるか」と一喝され、起きて袈裟をかけて提唱されたそうで、はたの者にはいたいたしかったらしいが、あのご気性ではそうしなくては気がすまなかったらしい。
そのあとはやはり疲労されたと見え軽いけいれんをおこされたが治まり、その夜も平常とかわらず、明くる十七日午後零時半頃、急に変化が起こり、直に医師をむかえいろいろ手当を加えたが効が見えず、四時十分には遂に示寂された。
全くあっという間であった。
臨終に立会って下すった野坂三枝博士も、こんな楽な臨終は今まで見たことがないといっておられたが、最初に注射をした時、顔をしかめられただけで、あとは一切苦悩の影を示されなかった。
また何も言おうともされず、 平生の老師の通り、すらっと逝ってしまわれた。
私には忽爾として逝かれたという感じが深い。」
と書かれています。
先代の管長足立大進老師も修行時代には、まだ蔵六庵にいらっしゃって、僧堂が四九日にお風呂を沸かすと、まず堯道老師のところに行ってお声をかけて、お風呂にはいってもらっていたと仰っていました。
鬚をはやした老師が杖をつきながら、手拭いを持ってお風呂に入りに来られたそのお姿が印象深いと仰っていました。
朝比奈老師が「老師の人となりは米寿のお祝いに出版された、老師の自伝『担板漢』に記されている通り、誠に典型的な禅僧であった。
明治大正の間でも最も古風な面をもった人で、宗演老師は極めて進歩的積極的な方であったのに対し、老師は全くその反対な人であったが、お互いにその長所を認めあい尊敬されあっていた。」
と書かれています。
何に於いても進歩的な釈宗演老師に対して古風な老師だったとうかがっています。
足立老師は、そんな尭道老師のことをご尊敬されていたようで、お亡くなりになる時にも堯道老師がお召しになっていた法衣をつけて入棺するようにと言い残されていました。
私は老師のご遺体に尭道老師の法衣を着せながら、改めて老師は尭道老師を慕っておられたことを思ったのでした。
堯道老師は明治二十五年に円覚寺の僧堂に来ています。
その年の春に宗演老師が師家となったのでした。宗演老師はまだ三十二才、尭道老師は二十歳でありました。
堯道老師の『擔板漢』によると「此の時圓覺僧堂は極めて枯淡にて、朝は割麦一升に米三合の一人前一合づつの粥に萬年漬とて大根の葉をしほ漬に成たるものにて、昼は割麥一升に米三合づつの飯一人前三合づつ汁は醤油槽で製造の味噌に時々の野菜を汁の實になし、晩は朝の通りの粥で、それに大衆が満衆になれば不足で困難、そこで横濱や諸方に合米と云ふものを願った。」
という枯淡な暮らしだったのであります。
麦一升に米三合ですから、麦飯といってもほとんど麦だったようです。
朝比奈老師の『しっかりやれよ』という本には、こんな堯道老師とのやりとりが載っています。
朝比奈老師が、修行僧の頭となっていて、堯道老師に、
「ご飯は麦半分米半分、こりゃ祖師の命日かなんかでなきゃ食べさせなかった食事です、味噌汁もたっぷり、おこうこもこしらえ、味噌もしこむというように準備しておいて、堯道老師に、
「人間並の食事を食べさせてやって下さい」
と願ったんです。ところが老師は、
「そんな贅沢はいかん」
こう言う、」
そこで朝比奈老師は修行僧の中でも役位という古参の者たちで何日もかけて老師を説得したという話があります。
朝比奈老師は堯道老師の頂相に「「楞伽窟中、金を抛ち鉄に換え、大担板漢、林下の傑と稱す。」と讃を書かれていますが、「担板漢」とあだ名されていました。
「担板漢」というのは、入矢義高先生の『禅語辞典』には、
「板を横に肩にかついだ男。自分がかついでいる(抱えこんでいる) 物や理念に左右されて行動する人聞を罵って言う。つまりワン・パターンの教条主義者。」という解説があります。
また『禅学大辞典』には「一方向きの人。一を知って二を知らない者のたとえ。」とあります。
朝比奈老師は「融通の利かない人を担板漢という。板を背負った男っていう意味です。板を背負っているから、馬車馬みたいに脇や後ろは見えない」と解説されています。
そう言われるほどに一筋に生きた方なのであります。
堯道老師のご命日に老師の遺徳を偲んだのでした。
横田南嶺