世の中の売り買う声も
「修行僧たちよ、
皆は、すでに世俗の縁を絶って、仏弟子となったのだ。
生活のために仕事をすることは、あなた方のなすことではない。」
という一文を紹介しました。
世俗の縁を絶ってといいながらも、今実際には、生まれたところがお寺だから、後を継ぐために修行に来ている人が多いので、世俗の縁の延長であるとも言えます。
生活のために仕事をすることというのは、原文では
「治生産業」となっています。
「治生」とは、暮らしを立てることであり、生業を上手にやりくりすることを言います。
「産業」は、今でもよく使われる言葉ですが、元来は「生きるための仕事。生業。なりわい。」という意味です。
今日使われる「産業」は、「物品を生産する仕事の総称。」を表していて、本来の意味から発展して日本独自の言葉となったものです。
ですから、「治生産業」とは、暮らしを立てるために、仕事をすることを表す言葉なのです。
我々修行する者は、すべてお布施によって生計が立てられています。
そこで、一切の生産活動をしなくても修行に専念できるようになっています。
実に有り難いことなのです。
これが、お釈迦様の頃からの修行の形態なのです。
僧侶というのは、世間の人には到底出来ないような修行をして、高い悟りの世界を目指して日日真剣に修行していて、その暮らしを支援するために、在家の方々が施しをして下さるのです。
これがお布施の原義であります。
今のお寺の形態は、少々異なって、ご先祖をお祀りしてくださっていることに対してお布施を下さったり、或いは葬儀や法事という仏事を行っていただくことに対してお布施をするようになっています。
僧堂の修行僧などは、僧としての暮らしの中では、一時期ではあるにせよ、修行に専念していて、その暮らしを在家の信者さんたちが支えてくれているのであります。
もっとも只今は、修行道場もコロナ禍の影響は大きく、今も町で托鉢することは遠慮していますし、各寺院の行事のお手伝いに行くこともありませんので、お布施が入らずにいます。
二十数名もの修行僧を養うことはたいへんな状況であります。
過去の蓄えが多少ありますので、どうにか今しのいでいるというのが実情です。
禅の問答の中に、
「一切の治生産業は実相と相違背せず」という言葉があります。
あらゆる世渡りや労働は、真実の姿に背くものではないという意味です。
『碧巌録』に出ています。
『碧巌録』には、『法華経』にある言葉のように説かれていますが、実際には『法華経』にはこの言葉自体は無くて、天台大師の書かれた『法華玄義』に出ています。
『法華経』の「法師功徳品」には、
「俗世間にまつわる著作や言行録について、政治経済にまつわる理論や目的について、生きていくための仕事などについて、どれを説いても、なにひとつとして正法にそむくことはないでしょう。」
という言葉もあって、こういう教えがもとになっているものと察せられます。
そこで、禅の公案としては、悟りの頂点に止まることなく、そこから敢えて退いて「治生産業」という実人生の暮らしをしながら、敢えてそこで人々の為に働くことを説くのであります。
大慈悲の心で、いかなる境遇になろうとも、それが真実の姿に背くものではないという教えなのです。
こういう教えが禅にあるので、廃仏といって仏怯弾圧がなされた時などには、渡し守をしながらも平然としていた祖師もいらっしゃるのであります。
こういう教えは、かつてご紹介した『維摩経』にも通じるものであります。
高い仏の道を守りながら、庶民とともにあたりまえの凡夫の日暮らしをする、これが真の坐禅だという教えでした。
お釈迦様のもともとの教えからは、随分と変化しているのですが、大乗仏教の真骨頂でもあります。
かつて大乗仏教が、仏塔を守る在家の者から興ったという説がありましたが、そういう一面も無きしもあらずというところです。
日本の聖徳太子のようなお方は、大乗仏教の理想の姿でもあります。
此の経の心を得れば世の中の売り買う声も法を説くかな
と道元禅師は、和歌集『傘松道詠』に詠っておられます。
この経とは『法華経』です。
『法華経』の心髄を会得すれば、市場での売り買いするような世間の営みも、仏法を説くのと同じだというのです。
これも「治生産業は皆実相と相違背せず」というのと同じことであります。
ともあれ、今のところ、どうにか、世間で働くことには関わらずに、摂心といって坐禅に集中できるのは有り難いことなのです。
横田南嶺