歩行禅
歩行禅というのは、京都八幡市の円福寺の老師に教わったものであります。
円福寺の老師が、朝歩行禅というのを行っていると聞いて、数年前に円福寺まで行って、教わってきたのでした。
私が老師から教わったのを、うちの僧堂で教えていたのですが、どうも隔靴掻痒の感があるので、一度円福寺の老師にお越しいただいて、直接指導をしてもらったのでした。
歩行禅というと、臨済宗では「経行」というのを思います。
「経行」は「きんひん」と読んで、坐禅と坐禅の合間に、禅堂の周りをぐるぐると歩くものです。
特にこの「経行」も臨済宗と曹洞宗では大きく異なっていて、坐禅の合間に歩くという行為は同じなのですが、臨済では、「走り経行」とも言われるように、サッサと時には、走るくらいの速度で歩くのです。
対して曹洞宗では、一息半歩といって、一息で足の幅半分ほどをゆっくりと歩くのであります。
臨済のパッパと働く機敏な宗風と、曹洞の綿密な家風との違いがよくでています。
もちろんこと、経行すること自体も大事な修行なのですが、どうしても坐禅の合間に足のしびれを取ったり、体をほぐすものという二次的な意味合いが強いように感じています。
その歩くことそのものを修行とするのが、歩行禅なのであります。
坐禅の合間とか、体をほぐすという為でもなく、ただ歩くことが禅そのものの修行だというのです。
円福寺の老師に教わったのは、実に静かな、そして丁寧に一歩一歩を味わって歩くものでした。
はじめに呼吸を調えることから始めます。
円福寺の老師には、このとき四七八(よんななはち)呼吸というのを教わりました。
坐って、四拍子吸って、七拍子息を止めて、八拍子息を吐くというのです。
はじめに「吸います」といって、「1、2、3、4」と数え、「止めます」といって、「1,2,3,4,5,6,7」数え、「吐きます」といって「1,2,3,4,5,6,7,8」と数えるのです。
これを何回かくり返します。
そうして、息が調ったら、各自自分で調ったと感じた時点でゆっくりと起ち上がります。
これも周りに合わせるのではなくて、各自の動作で行うのです。
なにもかも周りに合わせて行動するように教わってきた私などには、実に新鮮でありました。
それから、足の裏のどこか一点に意識を置いて、ゆっくりと足を上げて歩を進めます。
この歩く様子は、ただ足の裏の感覚のみに集中する場合と、呼吸に合わせて行う場合とがございます。
はじめは呼吸に合わせるのがやりやすいように感じます。
ゆっくり息を吸いながら足を持ち上げて、吐きながらゆっくり降ろすという、それだけなのです。
それだけでも十分心が落ち着き、集中されるのです。
さらに足の裏の微細な感覚に意識を向けて行うのです。
床から足の裏が離れてゆく感覚に意識を向けます。
それだけでも実に細かく見てゆきます。
そして体重が移動して、足が着地する感覚、床に足の裏が着いてゆく感覚を細かく見てゆくのです。
そんな繊細な感覚に意識を向けていると、まず頭であれこれと考えることが出来なくなります。
ただ感覚のみが顕わになっていると感じになるのです。
自我意識が薄らいできます。
自分が歩いているというよりも、ただ足の感覚のみが現れているという状態です。
我も無く、人も無く、ただ歩く感覚のみという状態になれるのです。
なかなか坐禅だけで、そういう心境になるには、時間がかかったりしますが、歩行禅の場合は、かすかな動きに集中しますので、集中しやすいのであります。
実に短時間で深い精神の集中が得られるのであります。
ただ歩く、その一歩一歩だけに無限の味わいが広がってゆくのであります。
そのあと坐りますと、一歩一歩を丁寧に歩いていたように、一息一息を丁寧に行うことができるようになります。
一息一息の繊細な感覚を味わえます。
我も無く、人も無い中に、ただ呼吸のみが起ち上がっているという感覚であります。
そして、なんといってもいいことは、朝早いとどうしても眠気に襲われるのですが、歩行をしていると眠気が起きません。
動きに集中しますので、眠くならずに集中しやすいのです。
そうしますと、坐禅中に警策を持って居眠りを戒めるという必要もなくなるのであります。
もっとも、こういう修行はもともとあったものだと思います。
『天台小止観』を読んでも、歩いている時、立っている時、坐っている時、横になっている時、なにか動作をしている時、そしてしゃべっている時、それぞれに心を集中させて、観察することを説いているのです。
いつの間にか、経行がサッサと歩くだけになってしまったのだと思います。
時には原点に返って軌道修正することが必要だと感じています。
また、ゆったり坐禅会などの折にでも皆さんと実習できたらと思っています。
横田南嶺