『維摩経』を学ぶ
花園大学の中にございます。
禅文化研究所ですから、文字通り禅文化の研究をするところであります。
季刊誌『禅文化』を発行し、様々な研究会や出版事業を行っています。
私も禅文化研究所から本を出したことがあります。
このたび研究所から新刊本『維摩経ファンタジーー大乗仏教の思想に学ぶー』を送っていただきました。
禅文化研究所の所長や花園大学の学長も務められた西村恵信先生の新刊であります。
西村先生が、禅文化研究所の所長時代に、私は理事に就任したのでした。
西村先生は、昭和八年のお生まれで今年八十八歳になられます。
今もなお精力的にご活動をされているのです。
深い学識と高邁な見識をお持ちでいらっしゃって、私もご尊敬申し上げています。
この『維摩経ファンタジー』は、そんな学識をもとにしながらも、はじめて『維摩経』に触れる人にも実に分かりやすく説いて下さっています。
「ファンタジー」という言葉を用いられるところにも、現代的な感覚がうかがわれます。
しかし、実にこの『維摩経』という経典は、「ファンタジー」であると言えましょう。
「ファンタジー」とは、『広辞苑』で調べると、「①空想。幻想。白日夢。②幻想的な小説・童話。③幻想曲」という意味が出ています。
この『維摩経』、たしかに私たちの現実のしがらみに生きている者にとっては、「ファンタジー」かのように見えますが、これが「空想」や「幻想」であるかどうかは、難しいところです。
「ファンタジー」といいながらも、単なる「ファンタジー」ではないところがあります。
西村先生もあとがきの中で、
「これはまた経典というよりはむしろ、実に愉快な一篇の喜劇であり、そこには経典の堅苦しさなど微塵もないのです。
これは言うところの「仏説」ではなく、むしろブッダの教えを根本にしっかり据えながら、しかもそれを否定的に超えようとする大乗仏教の思想的特色を、ストレートに突きつけてくる、奇想天外な経典であったのです。
私が敢えて本書の題を、『維摩経ファンタジー』などとしたゆえんです」
と書かれています。
また本文の終わりにも、西村先生が「読者のみなさんも、『維摩経』を貫く、あまりにもファンタジックな物語の中で、いつのまにか自分もまた、この菩薩たちの集まりにいるような気分になっておられたのではないでしょうか」と説かれているように読んでいると、この「ファンタジー」に引き込まれてしまうのです。
『維摩経』のはじめの「仏国品」には、仏の国土とはどのようなものかが説かれています。
仏国土というと、この世を離れてどこか遠くにあるように思われがちですが、そうではなく、この私たちの暮らしている国土が仏の国土だと説かれています。
『維摩経』には、
「ただ真っ直ぐな心、深い決意、修行、発心というものさえあれば、それこそがそのまま仏国土なのだ。
布施(人に与える)、持戒(戒律を守る)、忍辱(耐え忍ぶ)、精進(修行に励む)、禅定(坐禅する)、智慧(悟りの智慧)があれば、それがそのまま仏国土なのだ」と説かれています。
その『維摩経』の本文を受けて、西村先生は、
「この世界の清浄を得たいと欲する菩薩は、自己の心を修め浄めることに努めるべきであり、菩薩の心さえ浄らかであれば、この穢れた世界がそのまま清浄な仏国土なのだ、と説かれたのです」
と解説されています。
『維摩経』の本文には、「その心の浄きに随って則ち仏土浄し」と説かれているのです。
ところが、
「もしブッダのおっしゃるように、心さえ清浄であればこの世界は浄らかになるというのならば、すでにそういう菩薩行を行じられた心の浄いブッダがおられるこの世界(仏国土)が、どうしてこんなに汚れたものなのであろうか、」という疑問が起きてきます。
そんな疑問に対するブッダの言葉を、本書から引用させていただきます。
「するとブッダは、舎利弗の心に起こったこの疑問を、神通力によって即座に見抜かれ、次のように言われたのです。
舎利弗よ、太陽や月というものは不浄なものであると思うか。
そんなことは決してないであろう。
しかし、残念ながら凡人にはそれが見えないのだ。
その見えない理由というのは、お前たちが眼を瞑っているからなのだ。
責任はお前たち衆生の側にあって、太陽や月にはないであろう。
舎利弗よ、世界はもともと素晴らしく、清らかなものであるのに、お前には、それが見えないだけじゃないか」
というのです。
その通りなのかもしれませんが、そのまま受けとめることもまだ難しいところがあります。
もう少し本文を参照してみましょう。
「すると傍らにいた梵天の神である螺髻(らきつ)梵王がこれを聴いていて、舎利弗に言ったのです。
舎利弗さん、仏国土が清浄でないなどとおっしゃってはいけませんよ。
ブッダの住んでおられるこの世界は、迷いの三界でありながら、すでに金銀で飾られた宮殿(他化自在天の住む宮殿)なのですから」
と説かれます。
そう説かれても舎利弗は納得がゆきません。
「梵天よ、あなたがそう言われても私には、この世界の大地に高い低いがあり、棘や崖っぷち、あるいは山頂があるかと思えばまた、低い溝には泥がいっぱいなのが見えるだけじゃないですか」
と言いました。
そこで螺髻梵王が更に言います。
「そのようにこの世界が不浄に見えるのは、あなたの心に高い低いがあるからです。
そもそもブッダの智慧を得たいという意欲そのものが、始めから清らかでなく、汚れているからじゃないですか。
舎利弗さん、悩み苦しみながら、この世の衆生を思う心が平等で、ブッダのような智慧を得たいという意欲さえ浄らかであれば、この仏国土は、清浄そのものとして映るはずですよ」
と説かれました。
それでもまだ納得のゆかない人たちをご覧になって、ブッダは、
「この世界(三千大千世界)の上に、自分の足の指を置かれました。
するとそのとたん、この世界が無量の宝石で美しく飾られた世界として現われたのです」
と説かれています。
そして、西村先生は、
「これが『維摩経』の説く、独得のファンタジーなのですね」
と仰っています。
更に「その浮かび上がった世界は、あたかも無限の功徳の宝で飾られた世界の出現で、人々は自分たちもみな、一人ひとり宝の蓮華で飾られた座に坐っているのを感じたのです」
ということなのです。
このところを、山田無文老師は、
「そこでお釈迦さまが奇跡を顕わして見せて下さいました。
足の指でちょっと地べたを押すと、たちまち世界中が何千何万の宝石でかざりたてられた素晴らしいお浄土になったのです。
それはまるで、宝荘厳仏という仏さまの、「無量功徳宝荘厳土」というお浄土のとおりです。
そして一切の大衆が、舎利弗ばかりでなく皆が、そのきれいな世界を見て、なんと素晴らしいではないか、こんな景色はいまだかつて見たことがないと讃嘆し、しかも、自分たちがいつのまにか、蓮の花の上に乗っているのに気がついたのです」
と解説されています。
はてさて、この世は不平等で汚れているというのが現実で、仏の清らかな国土というのがファンタジーなのか、はたまた、この世で苦しんでいる私たちがファンタジーで、仏の清らかな国土が、真実なのか、どっちがファンタジーなのか、分からなくなってくると面白いのです。
そうなると『維摩経ファンタジー』と名づけられた西村先生のお心も少し見えてくるかと思います。
僧堂の修行僧も、まだ『維摩経』の内容も分からない者が多いので、この西村先生の本をテキストにして、皆で読んで学ぼうと思っています。
私自身も今一度『維摩経』のファンタジーの世界に遊ぼうと思っているのです。
横田南嶺