ここにいる
まずは、「人間の『生と死』とは」という大きな見出しで、手塚塾という手塚治虫さんのことを紹介した記事があります。
手塚治虫先生の大長編『ブッダ』のことが書かれています。
そのなかに、
「一般的に、仏教は世界三大宗教の一つと言われています。
しかし、仏教は特定の神様をまつるようなものではなくて、人間はどうやって生きればよいか、人間の苦しみはどこから来て、悲しみはどうやったらなくせるのか、ということを説いたものなのです。
そういう意味では、哲学や道徳に近いものなのです」
ということが書かれています。
まさにその通り、どう生きるか、しかも「死」を見つめてどう生きるかということを考えるものであります。
更に映画監督の山田洋次さんが、「人間的魅力 いい人」と題して、田中邦衛さんの追悼文を書かれていました。
この寄稿の冒頭の部分に心惹かれました。
「映画俳優にとって必要な資質は、一にも二にもその人が持って生まれた人柄、つまり人間的魅力であり、演技力はその後である。
入場料金を払ってまでその人にスクリーンで会いたくなる魅力を俳優は持たねばならない。
演技をする以前に先ずはカメラの前に人間としてデンと存在することだとぼくは常に俳優に要求する。
じつはそれが俳優にとって一番難しいことなのだが。」
というのです。
その通りだなと思って読んでいました。
さすが山田洋次監督は鋭い指摘をされるなと感服していました。
更に山田監督は、
「田中邦衛さんのあの一度見たら忘れられない楽しい顔を見れば、口を突き出してつばきを飛ばしながら懸命にしゃべるあのバリトンのよく響く声を聞けば、誰だって頬がゆるんでくる。
ああこんな人が父親だったら、こんな教師がいてくれたら、こんなやつが友人だったらと誰もが思う。
そんな貴重な俳優がいた日本の映画界は、あるいはテレビドラマ界は幸せだったと今にして思う。」
と書かれています。
その通りだなと思いつつ、これは我々僧侶にも同じ事が言えるなと思いました。
そこで、山田監督の文章を、映画俳優のところを僧侶に置き換えて考えてみました。
「僧侶にとって必要な資質は、一にも二にもその人が持って生まれた人柄、つまり人間的魅力であり、法話や読経はその後である。
高いお布施を払ってまでその人に会いたくなる魅力を僧侶は持たねばならない。
法話や読経をする以前に先ずは皆の前に人間としてデンと存在することだとぼくは常に僧侶に要求する。
じつはそれが僧侶にとって一番難しいことなのだが。」
というように読み替えてみると如何でしょうか。
まさに痛いところをついています。
もちろんのこと、俳優さんも様々な演技を学び努力もされることだと思います。
しかし、本当に人の心に訴えるのは、そのような演技ではないのでありましょう。
僧にしても、法話の稽古をしたり、お経を上手にあげられるように努力します。
その努力が大切なことは言うまでもありませんが、人の心に訴えるのは、そのような技量ではなくて、やはりその人の人間的魅力なのでしょう。
では、人間的魅力とはいったい何なのか考えてみます。
明るい性格、楽しいこと、誠実であること、謙虚であること、いつも好奇心を持っていること、学ぼうとする意欲を持っていることなど、様々ありましょう。
そのように列記して考えても何か足りない気がします。
同じ夕刊の特集ワイドというところに、小国綾子さんが、「あした天気になあれ」というコラム記事を書かれていて、「本を贈ること 祈ること」という題の文章がありました。
小国さんは、今まで本の贈り物に支えられてきたと仰っています。
知人の娘が小学校に入学して、『ポケット詩集』(田中和雄編集)を贈ったそうなのです。
まどみちおさんの詩、「ぼくがここに」のページにお祝いのカードをはさんだそうです。
まどみちおさんの詩は、
ぼくが
ここに
いるとき
ほかの
どんなものも
ぼくに
かさなって
ここに
いることは
できない
というものです。
この詩を贈ったことを紹介して、本を贈ることは祈ることに似ていると書かれていました。
「あなたの存在はかけがえがないよ、と伝えたくて」と書かれていました。
ぼくが、ここにいる、他の誰でもない、誰にも代われないぼくがここにいるのです。
そして、ここにどっしりと腰を立てて、でんと坐るのが坐禅でありましょう。
仏さまといえども、祖師といえどもかさなることはできないのです。
誰にも代われないぼくが、ここに坐っている、その尊さに目覚め、その喜びに打ち震えるような感動があってこそ、その人の人間の魅力が光を放つのではないかと思うのであります。
毎日新聞の夕刊から学んだのでした。
このたび、その毎日新聞の夕刊から取材を受けることになりました。
有り難いご縁であります。
横田南嶺