布薩(ふさつ)
七月三十一日には、詳しく書いています。
要するに、半月に一度、僧侶が集まって、戒を唱えて自省する機会のことです。
この儀式を臨済寺僧堂の阿部宗徹老師に教わって、毎月二回欠かさずに行っています。
特に、この布薩に注目したのは、佐々木閑先生が、この布薩こそが仏教僧団の生命線であり、根幹になるものだという研究をなされているからでもあります。
先日、花園大学に行った折に、佐々木閑先生と対談をさせていただきました。
その時にも、布薩について触れました。
私のところの僧堂で、大乗仏教の戒ではありますが、それぞれ現代語でみんなで唱和して、自分たちで反省するようにしていると申し上げますと佐々木先生は、とても喜んで下さいました。
現代文で読むのが素晴らしいと言ってくださいました。
というのは、佐々木先生のご縁のあるタイの僧院では、今も当然厳格に布薩が行われているらしいのですが、二百五十もある上座部仏教の戒を、原文のまま素早く読んでしまうので、単なる儀式となってしまって、ひとりひとりが反省するという本来の趣旨が見失われていると仰っていました。
これが、私たちの世界の大きな問題です。
先日にも小欄で食事について触れましたが、食事五観文という素晴らしい言葉を唱えても、もはや意味内容を考えることなく、ただ呪文の様にして唱えて食べているのが実情になってしまっていました。
作法は厳格に守られているのですが、そのこころが失われているのです。
ですから、現代語で皆で読むのは素晴らしいと言ってくださったのでした。
たとえば十善戒を唱える時には、
「第一不殺生(ふせっしょう)」と私が唱えた後に、皆で
「すべてのものを慈しみ、はぐくみ育て」と唱和します。
次に「第二不偸盗(ふちゅうとう)」と私が唱えて皆で
「人のものを奪わず、壊さず」と唱和します。
以下同様に、
「第三不邪婬(ふじゃいん)」と唱えて
「すべての尊さを侵さず、男女の道を乱すことなく」と唱和、
「第四不妄語(ふもうご)」と唱えて
「偽りを語らず、才知や徳を騙(たばか)ることなく」と唱和、
「第五不綺語(ふきご)」と唱えて
「誠無く言葉を飾り立てて、人に諂(へつら)い迷わさず」と唱和、
「第六不悪口(ふあっく)」と唱えて
「人を見下し、驕(おご)りて悪口や陰口を言うことなく」と唱和、
「第七不両舌(ふりょうぜつ)」と唱えて、
「筋の通らぬことを言って親しき仲を乱さず」と唱和、
「第八不慳貪(ふけんどん)」と唱えて、
「仏のみこころを忘れ、貪りの心にふけらず」と唱和、
「第九不瞋恚(ふしんに)」と唱えて、
「不都合なるをよく耐え忍び怒りを露わにせず」と唱和、
「 第十不邪見(ふじゃけん)」と唱えて、
「すべては変化する理を知り心を正しく調えん」と唱和するのです。
そして最後に私の作成した誓いの言葉を唱えます。
それは、
「私達は、仏陀釈尊の慈悲のこころを学び、慈悲のこころを実践するために修行いたします。
……一人一人の仏心仏性を拝みあい、ここに仏陀釈尊の弟子として恥じることのない、敬愛和合の道場を築くことを誓います」
という内容の言葉です。
それらを唱え終わってから、私が、
「前回の布薩から今回の布薩までの間に、戒にもとる行いがなかったか、みずから反省し、今回の布薩から次回の布薩まで、戒にもとる行いがないように心に誓います」
と言って、約三分ほど黙想して各自反省し、誓うのであります。
戒を読む前に、三千仏の礼拝を行いますので、全て終えるのに約一時間かけて行っています。
佐々木先生は、この仏陀のこころを鑑みて、自らを反省することこそが、本来の布薩の精神であり、それこそが仏陀のこころにかなうのだと仰ってくださいました。
多年お釈迦様の仏教を探求し続けておられる佐々木先生から、自分たちの行っている布薩にお墨付きをいただいたようで、嬉しく思い、自信をもってこれからも続けてゆこうと思うのであります。
今回三十日の布薩には、はるばる愛知県から若い和尚様がご参加くださり、私たちも大いに励まされました。
横田南嶺