布薩
これはどういうことかというと、『仏教辞典』によると、
「プラークリット語の(u) poadha に相当する音写。原語の古形はupavasatha 」
ということで、文字自体に意味はなく、古いインドの言葉の音を写したものです。
ではその意味はというと、
「火もしくは神に近住する意」だそうです。
そして
「婆羅門教(ばらもんきょう)の新月祭と満月祭の前日に行われた儀式を仏教に取り入れたもの」
ということです。
それが後になって、仏教教団において、
「半月に一度、定められた地域(結界(けっかい))にいる比丘(びく)達が集まって、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)を誦して自省する集会」
ということになりました。
波羅提木叉というのは、「戒」のことを指します。
ですから、毎月二回お坊さんたちが集まって、僧侶としての戒の条目を唱えて、自分自身を反省する儀式ということなのです。
のちに「月ごとの十五日、三十日に寺々に布薩をおこなふ。鑑真和尚の伝へ給へるなり」(三宝絵下)と言われるように大切な仏教教団に儀式となりました。
京都の建仁寺では、毎年七月三十日に古式に則った伝統の布薩が行われています。
私も建仁寺のお世話になっていた雲水のころ、この儀式に参列させてもらっていました。
しかしながら、当時未熟な雲水だった私は、この儀式の深い意味には気がついていませんでした。
古来仏教の修行は、「戒定慧」の三学と申します。
戒をたもち、禅定を修め、智慧を啓発してゆくものです。
戒をたもつことはその一番の根底になるものです。
ところが、我々禅宗の場合、僧侶になる得度の時に、受戒しますものの、そのあと戒を意識することは少ないように思われます。
そこで今から三年前に、静岡市にある臨済僧堂師家の阿部宗徹老師を講師にお招きして、授戒についての特別講義をお願いしました。
そのことについては、拙著『仏心の中を歩む』の中に記しています。
その折りに、阿部老師が臨済寺の僧堂で布薩を行っていると聞いて、私はどういう儀式として行っているのか、是非教わりたいと思って、臨済寺まで行って教わってきたのでした。
それを少し、独自に工夫して、全体の儀式の中で、百の礼拝行を通して戒の条文を現代語訳で読むことができるように致しました。
阿部老師の布薩は、戒の条項それぞれを皆が現代語訳で読むことになっていて、これに感銘を受けました。
単なる形式的な儀式ではなく、現代語訳を読むことによって、自覚を促されます。
戒というと「いましめ」であると思われますが、原語の意味からしますと、
「いましめ」というよりも「良き習慣」であると受けとめています。
習慣といっても、「戒を守るように習慣づける」というより、
「戒を守れていないことに気がついて、今一度戒に戻ることを習慣づける」
と考えています。
マインドフルネスを習うと、呼吸瞑想をしていて、呼吸から意識がそれてしまい、雑念が起こったなら、そのことに気づいてもう一度呼吸に戻ることが大切だと教わりました。
それと同じように、戒にもとることがあっても、それに気がついて戻ることが大切だと思うのであります。
そのために、毎月二回、三千仏の名号を称え、祖師方を礼拝して懺悔し、三帰戒、三聚浄戒、十重禁戒、十善戒を称えて反省するのです。
最近は、僧堂の雲水だけでなく、近在の若い和尚様方もご参加くださっていて、これも有り難いことであります。
礼拝行というのも、謙虚な気持ちに立ち返ることができていいものであります。
これは、本当は坐禅会の時などに、はじめに行うといいと考えています。
また新型コロナウイルスがおさまったならば、一般の皆さまとできるように工夫してみたいと思っています。
横田南嶺