白鳥は哀しからずや
一九九八年に出版された本であります。
この本は一般に販売されているものではありませんでした。
辻光文先生の本であります。
辻光文先生のことについては、何度か書かせてもらったことがあります。
二〇二二年一月十八日の管長日記に「生きているだけではいけませんか」と題して書いています。
また私は法話の折にもよく辻先生の言葉を紹介させてもらって来ています。
入手することができなかった、その『いのちのかけら~生きているだけではいけませんか~』が、このたびぱるす出版から発行されました。
有り難いことです。
もとの本は文字も小さく厚い本なので、それを全文、本にするのは難しく、その中の一部を選んで本にしてくださっています。
その出版にあたって、私も一文を書くようにと依頼されて巻末に書かせてもらっています。
辻先生という方は、一九三〇年秋田の臨済宗のお寺でお生まれになった方です。
今の花園大学である臨済学院専門学校で学ばれます。
しかしながら、辻先生は僧侶の道を歩まずに、阿武山学園という児童自立支援施設で働かれました。
ここは小舎夫婦制といって、一つの家に子どもたちと一緒に暮らして、親代わりとなって寝食を共にしながら生活を支えるところです。
本の中にこんな言葉があります。
「私たちのもとへ来る子どもたちは、大半十四·五才の中学生である。
物心ついてからは十年の歳月しか経ていない。
しかし、その間に子どもたちが味わって来た人生の哀歓には通常人の数倍に匹敵するものがある。
恵まれぬ家庭の中で無自覚に翻弄された人生から、それを自覚的に受けとめ、転ずることによって、より深い人生を展開し得ることを私たちは信じている。
「生きる」
ということの意味は、
「世の哀歓をどれだけ自分自身の真の哀歓とするか」
というところへ帰するのである。
そういう意味では、中途半端な生ぬるい人生ではなく、子どもたちの寂寥孤独、慟哭悲痛の経験を私たちは、人生の一つの宝とするものである。
それは、人間の愛情や理性を超えるものであり、共に生きる者の悲しみともいえる。」
という言葉です。
辻先生のお心が伝わってきます。
私は本の巻末に「白鳥は哀しからずやー『いのちのかけら』に寄せてー」と題して短い文章を書かせてもらっています。
その中に
「本書の中で辻先生は子供たちの問題を次のように指摘されています。
人を信じられない
人の気持ちの分からぬ子
時間的継続を欠く子
刹那的な子
表面を飾りたがる子
情性の欠如
これらは、今の時代においても全く変わることがありません。世の中は時代に応じて変わりますが、人の心は、変わることはないのです。
生きることの意味を問い続けられた辻先生がたどり着かれた答えが、本書の中にはっきりと書かれています。
「生きる」ということの意味、それは「世の哀歓をどれだけ自分自身の哀歓とするか」というところへ帰するというのです。
世の哀歓を我が哀歓とする、その心はまさしく仏心であり、慈悲の心にほかなりません。」
というものです。
また辻先先生は南禅寺の柴山全慶老師に深く学ばれています。
辻先生は柴山老師の「花語らず」の詩に二十歳前後で出会って「人生はこれなんだ」としみじみ思われたそうです。
花語らず
花は黙って咲き
黙って散っていく
そうして再び枝に帰らない
けれどもその一時一処に
この世のすべてを托している
一輪の花の声であり
一枝の花の眞である
永遠にほろびぬ生命の歓びが
悔いなくそこに輝いている
私は「本書刊行に寄せて」の中で
「しかし、そのように生きたいと願いながらも、なかなかそうは生きられないのも現実です。
辻先生は、
白鳥は哀しからずや
空の青海の青にも染まず漂う
という若山牧水の歌を好まれたたようです。
本書の中にも「まさに白鳥の如く、汚れる中で汚れずに生きることの何と素晴らしいことであろうか。子どもは本来白鳥なのだ。白鳥の如く生きて欲しい。みんな決して染まずに、自己を失わずに生きて欲しいと願わずにおれなかった。」とあります。
辻先生ご自身が、まさに白鳥のように、この世を生きられた方だと感じいります」と書かせてもらいました。
今の世に、辻先生の本が出されるのはまさに白鳥の飛ぶが如くであります。
その出版にほんの少し関わることができて有り難く思っています。
横田南嶺