生きているだけではいけませんか
非売品であり、一般に手に入るものではありません。
先日改めて読み返してみました。
辻先生の言われる「生きているだけではいけませんか」という言葉は深いものがあります。
神渡良平先生の『共に生きる』という本を参考にして、その一部を引用させてもらいます。
辻先生というのは、家庭での養育に問題があり、非行に走ってしまった児童を預かる施設で生徒の更生のために尽くしておられた方です。
シンナーや窃盗、売春などをした児童を、小舎夫婦制という家庭的な生活の中で生活指導し、自立を援助するところです。
この辻先生というのは昭和五年(一九三〇)、東京で生まれ、秋田県の山の中の禅寺で育ちました。
長じて京都の臨済学院専門学校に進みました。
辻先生は現代の仏教界のあり方に疑問をもって、卒業しても寺の後は継がずに、在家仏教徒として生きようとしました。
いろんな苦労を重ねますが、やがて大阪の教育支援施設を訪ねたことから、そこで住み込みで働くことになりました。
その後、大阪市立阿武山学園という小舎夫婦制の施設で、道を踏み外した児童たちと生活を共にしながら、自立を手助けするようになりました。
あるとき、辻先生の許に母に捨てられた少女が送られてきました。
母親といっしょに買い物に行っていたとき、なんと母親に置き去りにされ、捨てられたのでした。
母親は新しい男性と結婚したのでした。
実の父親にも再婚話が出て、施設に入れられたのでした。
施設に廻されてきたものの、少女はあばれるばかりだったのでした。
辻先生にも悪態をつき、トラブルばかりでした。
さしもの辻先生ももてあまし、「この子さえいなければ」とため息をつくこともあったそうなのです。
ところがその少女が中学二年の夏、一種の悪性腫瘍と診断され入院することとなったのでした。
医師は助からないかもしれないとも言ったのでした。
日頃、小憎たらしいとさえ思うことのある少女であっても、もう二度とこの少女は私共の集いに帰ってくることはない、
この美しい山も緑ももう再び見ることもなくこの世を間もなく去ってしまうかもしれない……そう思うと、今この子のためならもうどんなことでもしてあげたいと思ったのでした。
そこで辻先生は「私は少女のいのちを初めてみた」と言います。
そして少女のことを長い間みていて本当は少しもみていなかったのだと思ったのです。
ところが幸いにも入院生活一カ月の後、原因不明のまま病状の進行がなく、全快することはなくても退院できました。
少女はなぜか中学三年になってから本当に変っていったといいます。
自分のいのちを自分で生きる積極的な子どもに見事に変っていき、嘘をつくこともなくなったのでした。
辻先生の「命をみていなかった」という言葉は重いものです。
「問題はその少女にあったのではなく、その子を全面的には受け入れていなかった私に問題があった」と辻先生は反省されたのでした。
手に負えない性格や迷惑ばかりかけている現実というのは、色の世界です。
しかし、その本質であるいのちは空の世界なのです。
空の世界は、なんの差別もないみほとけの慈悲の世界にほかなりません。
こんな子どもたちとの出会いを通じて、辻先生は深い慈悲の世界に目覚めてゆくのでした。
そして辻先生は、ようやくこの仕事が自分の天職だと思えるようになったのでした。
辻先生の詩を引用します。
「『いのちはつながりだ』と
平易に言った人がいます。
それは
すべてのものの
きれめのない
つぎめのない
東洋の「空」の世界でした。
障害者も、
健常者も、
子どもも老人も、
病む人も、
あなたも、わたしも、
区別はできても、
切り離しては
存在し得ない
いのち、いのちそのものです。
それは
虫も動物も
山も川も海も
雨も風も空も太陽も、
宇宙の塵の果てまで
つながるいのちなのです。
劫初よりこのかた、
重々無尽に織りなす
命の流れとして、
その中に、
今、
私がいるのです。
すべては生きている
というより、
生かされて、
今
ここにいる
いのちです。」
と辻先生は詠いました。
「生きているだけではいけませんか」という長い詩を残されています。
その冒頭には、
「子供の頃から、
役に立つ人になりなさいヨ、
人に迷惑をかけてはいけませんヨ、
人のために、
国のために、
天皇陛下のために
お役に立つ人になりなさいヨ。
私はそう親に教えられ、
育てられてきました。
けれども
一五歳の夏、
一五年戦争が終わり、
天皇は神サマから人間となりました。
今頃天皇のために、
命を捨てなさい
と教える親はおりません。
人のため、国のためは、
社会のためとなり、
公共の福祉に、
変わりました。
そして今、
ここまで生きて来て
フッと思うのです。
生きているだけではいけませんか。」と。
辻先生の深い言葉に考えさせられます。
坐禅は、天地いっぱいに生かされているいのちをただ生きているだけの営みなのであります。
辻先生は更に詠います。
「すべてみな、
生かされている、
その いのちの自覚の中に、
宇宙続きの、
唯一
人間の感動があり、
愛が感じられるのです。
本当は
みんな
愛の中にあるのです。
生きているだけではいけませんか。」と。
辻先生は禅僧の道を歩みませんでしたが、そこには素晴らしいいのちの輝きが感じられるのであります。
『いのちのかけらー生きているだけではいけませんかー』を読んでしみじみそう思いました。
横田南嶺