心の坐り
体はたしかにそこに坐っているけれども、心が坐っているかどうかが問題だ、心の坐りを持ってきなさいと老師に言われたのでした。
この時から二十年にわたる公案修行が始まったのでした。
この心の坐りということについて、森信三先生の『修身教授録』に森先生ならでは指摘があると教わりました。
先日佐々木奘堂さんにお越しいただいて、講義を賜った時のことでありました。
『修身教授録』の巻二、「学年始めのあいさつ」にある一節であります。
一部を引用させていただきます。
「わたくしの考によりますと、われわれ人間というものは、すべて自分にたいして必然的にあたえられた事柄にたいしては、そこに好悪の感情を交えないで、率直にこれを受け容れるところに、心の根本態度が確立すると思うのであります。
否、われわれは、かく自己にたいして必然的にあたえられた事柄については、ひとり好悪の感情をもって対しないのみか、さらに一歩をすすめて、これを「天命」として謹んでお受けをするということが大切だと思うのです。同時に、かくして初めてわれわれは、真に絶対的態度に立つことが出来ると思うのです。」
「われわれはこの世において、わが身の上に起る一切の事柄にたいして、すべてこのような態度をもって臨むべきだと思うわけです。」
「…如何なる場合においても、大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として謹んでお受けをするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。
ですからこの根本の一点に心の腰のすわらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。」
というものです。
ここに「心の腰の坐り」ということが説かれています。
更に、「教育者の道」という章には、次の言葉があります。
「単に教科の内容を教えることだけでも、じつに容易ならざる準備と研究とを要するわけですが、さらに眼を転じて、教育の眼目である相手の魂に火をつけて、その全人格をみちびくということになれば、わたくしたちは教師の道が、じつに果てしないことに思い到らしめられるのであります。」
「ではわれわれとして、それにたいして一体どうしたらよいか、ということが問題でしょうが、わたくしとしては、それに対処しうる道はただ一つあるのみであって、それは何かというに、人を教えようとするよりも、先ず自ら学ばねばならぬということであります。かくしてここに人を教える道は、一転して、自ら学ぶ果てしのない一道となるわけであります。」
「そしてこのように、生涯をつらぬいて学び通すという心の腰のきまった時、即ちこの根本態度が確立した時、そこにはじめて諸君の人生の一歩が始まると共に、また真実の教育者としての第一歩が始まるといえましょう。」
という文章であります。
まずは我が身に降りかかることは、すべて天命として受けるという覚悟、そして生涯学び続けるという決意、これらが心の腰の坐りとなるのであります。
「教育者の道」にある文章については、以前「楽しく学ぶ」という管長日記に引用したことがあります。
「楽しく学ぶ」ということに対してはいろんな感想をいただいています。
ご理解をいただく方もいれば、そうではない方もいらっしゃいます。それは当然であります。
私たちの伝統の世界では、いろんなことをやっていると、歓迎されないこともままあるものです。
厳しいご意見を頂戴することもございます。
しかしながら、私は、今修行している若い方のことを思えばこそ、こうしてあげたいという気持ちでやっているだけでありますので、淡々とやってゆくまでであります。
孤独と逆風とは、子供の頃から慣れています。
逆風の中だからこそ、帆をあげられるのかもしれませんし、もしも誰か一人でも喜んでくれればそれで十分なのであります。
奘堂さんとは、講義の前後にも控え室でいろいろ話し合いました。
もっぱら話題は腰を立てることについてであります。
先日とある方から聞いた話を奘堂さんにしました。
ある茶道の宗匠は、正座をしても、決してお尻をかかとに落とさずに、常に1ミリほど浮かしているのだという話をある方から聞いたのでした。
その宗匠は、ご高齢ですが衰えを感じさせないのであります。
また、ちょうどその同じ日の午前中に、別の茶道を研究なさっている先生にもその話をすると、その先生も同じだと言われました。
お尻とかかとの間には、半紙一枚がすっと入るくらいにしているというのでした。
こういう姿勢は腰が立つのであります。
奘堂さんが説かれるところと一致するのであります。
特にお茶のお点前では、台子などが前にあると、すっとお尻が持ち上がるようにして坐るというのであります。
手を前に出して、道具を丁寧に扱い、腰がかすかに浮く状態なのです。
なるほど二六時中このように心がけていると、常に腰が立って、足の筋肉も鍛えられると思いました。
いろいろのご意見もいただきますが、そういう志のある方の話を参考にしたり、奘堂さんのように常に道を求め続けておられる方と語り合いながら、我が学びの道を深めてゆくばかりなのです。
これが心の坐りなのかもしれません。
横田南嶺