腰を立てるとは
以前佐々木奘堂さんにお目にかかった折に、私はニック・ブイチチさんの動画を紹介してさしあげました。
その動画をご覧になって奘堂さんは、いたく感銘を受けたようで、今回の講義はこのニック・ブイチチさんの動画をもとにして丁寧に解説してくれました。
ニック・ブイチチさんというのは、1982年生まれのオーストラリアのキリスト教伝道師の方ですが、両手両足がなく生まれてきたのであります。
幼少の頃から、精神的にも肉体的にも苦しみ悩みながら成長しました。
何度も自殺を考えたそうなのです。
しかし、両親の愛と両親への感謝から思いとどまりました。
十七歳で講演をはじめ、今や自分自身の身の回りことを自分で行い、水泳、サーフィン、ボート、魚釣りなどありとあらゆるレジャーを楽しんでいるのだそうです。
結婚して子供もいます。
奘堂さんが紹介してくれた動画でニック・ブイチチさんは、ご自身の体験をもとに生きるうえで大切なことを八つに分けて語ってくれています。
一つ目は感謝です。
今自分にあるものに感謝をすることです。
二つ目は、やってみるまでどうなるかわかならないということ。
三つ目は、失敗したら、もう一回やってみることです。
四つ目は、失敗は教育だということ。何度も失敗して教わるのであります。
五つ目は、障害は、機会であるということ。障害を悲観するのではなく、ひとつの一つの機会を与えられたということでしょう。
六つ目は、大きな夢を持つこと。
そして七つ目は、夢を持って決してあきらめないことです。
八つ目は、信念を持つことなのです。
奘堂さんは、坐るということについて、座骨ではなく、大腿骨、足の付け根に注目されています。
足の付け根で立つことを坐るというのが、奘堂さんの説明なのです。
両足のないニック・ブイチチさんは、足の付け根で立っています。
常に腰も立っているのです。
腰を曲げたりしたら、うしろにひっくり返ってしまうでしょう。
そして単に身体の腰を立てるだけではなく、心の上において志が立っているのです。
動画の中で、両手両足のないニック・ブイチチさんが、転んでそこから立ち上がる場面があります。
実に感動的なのです。
奘堂さんは、ここに腰を立てることのすべてが込められていると力説してくれました。
転んだままではいけない、これではだめだと思って立ち上がるのです。
そのときにこそすっと腰が立つのです。
奘堂さんが説かれる、いつも腰を立てるということは、仙骨や腰骨などという身体のことだけでなく、ましてや身体技法で腰を立てるという次元のことではなく、生きる志を立てることなのです。
森信三先生の、『修身教授録』の中から
「人生の真の出発は、志を立てることによって始まる。
人間はいかに生きるべきであるかという一般的真理を、自分自身の上に落して来て、この二度とない人生を、いかに生きるかという根本目標を打ち立てることによって、はじめてわたくしたちの真の人生は始まると思うのです。
このように私は、志を打ち立てるところに、学問の根本眼目があると信じるものです。その他のすべての事柄は、要するにこの根本が打ち立てられる処に、おのずからにして出来てくるのです。」
「そもそも真の志とは、自分の心の奥底に潜在しつつ、常にその念頭に現われて、自己をみちびき、自己を激励するものでなければならぬのです。」
という言葉を引用して腰を立てることにつなげて説明してくれました。
こういうところは、臨済禅師が、「随所に主となれば立処皆真なり」と説かれたのと通じるのであります。
いついかなる時においても主体性を持って生きるのです。
そうすれば、その場その場が真実なのです。
その様子は実に生き生きしているのです。
しおれた状態ではないのです。
臨済禅師は、
「ちゃんとした修行者でありたいのなら、ますらおの気概がなくてはならぬ、人の言いなりなぐずでは駄目だ」と説いています。(岩波書店『臨済録』入谷義高訳より)
『臨済録』の原文では、
「道流、汝若し如法ならんとほっすれば、直に須く大丈夫にして始めて得べし。若し萎萎随随地ならは即ち得ざるなり」
というのです。
ニック・ブイチチさんのように、横になった状態から如何に立ち上がるかということを、何度も実習させてもらいました。
それから貝原益軒の言葉を引用してくださったのも印象に残っています。
貝原益軒が、
「今の人の欲をほしいままにして生をそこなうは、たとえば、みずからのどぶえをたつが如し。
のどぶえをたちて死ぬると、養生せず、欲をほしいままにして死ぬると、おそきと早きとのかわりはあれど、自害する事は同じ。」
と言っているのです。
自分の欲望のままに好きにしていると、自分自身の生命を損なうことだというのです。
それは自害する行為に等しいというのです。
だらけて楽にしていると心地よいように感じるかもしれません。
それは、欲をほしいままにしているだけであり、自らの生を損なう行為なのです。
益軒は、気を養うには、常に腰を正しくすえ、真気を丹田におさめあつめることにあると説いています。
「人間いかに生きるべきか」「このままでいいのか」「こんなことではいけない」という思いで志を立てて、立ち上がろうとするときにこそ、真に腰が立つということを学びました。
横田南嶺