汗を流して水を汲めば、自分のものだと思いこむ
東本願寺で出された本であります。
いろんな話が載っているので、読んでいて勉強になります。
童話ですので、わかりやすく書かれています。
このわかりやすくというのが実際には難しいものです。
また私の知らない話も載っているので、有り難いものです。
長年仏典を学んできたつもりでも、仏教の世界は改めて広いと感じるのであります。
目連尊者が、ある悲惨な人を目にしたという話であります。
痩せ細り、肉が全く無くて、骨を皮がおおっているというのです。
首は細すぎて食べ物は喉を通りそうにありません。
目連尊者が声をかけると急に走り出しました。
川の方に向かったので、水を飲みに行ったのかと思いました。
ところがその人が川に着くと川が消えてしまったのでした。
雨が降ってきました。
これで助かるだろうと思ったのですが、なんと雨の一粒一粒がその人の体に触れるたびに火となって燃えるというのです。
目連尊者も助けることができません。
お釈迦さまに、どうしてあの人はあのような目に遭うのかを尋ねました。
お釈迦さまは、その人の過去を語りました。
女の人が額に汗を光らせて井戸で水を汲んでいました。
そこに喉の渇いたお坊さんがやってきました。
女の人は、お坊さんに言いました。
苦労してやっといっぱいにした水だから、一滴だってあげないと。
井戸から水瓶に水を汲んでいれるということはたいへんだったのです。
井戸ならいくらでもあるから、自分で汲んで飲むがいいと言ったのでした。
そう言って瓶を乗せてさっさとゆきました。
瓶を乗せる時に水がこぼれたのでした。
その水は一口の水よりも多かったのですが、人にはあげたくなかったのです。
家に帰ると、あつかましい坊さんだ、せっかく汲んだ水をやれるものかと言いました。
そのときに家の中から声がしました。
そんなことを言うものじゃない。汲んだのはおまえでも、水は自然の恵みだよ、ひとくちあげたらよかったのに。
人さまが喜んでくださるのを見るほど、うれしいことはないじゃないかと。
何を言うのかと言わんばかりに、女の人は、声のする方へつばをはきました。
すると女の人も家もすーっと消えたのでした。
お釈迦さまがおっしゃいました。
「汗を流して水を汲めば自分のものだと思いこむ。
水を汲むつるべも、その手も、たまわったものであることに気がつかない。
それはこの人だけのことだろうか」と。
悲しいまなざしでお釈迦さまは言われたという話なのであります。
苦労して手に入れることは尊いことであります。
しかし、苦労することによって、自分のものだと執着することには問題があります。
そのことは争いの原因になったり、苦しみを引き起こす原因になるのです。
水は誰のものでもありません。
大自然そのものです。
その大自然の恵みをいただいて私たちは生きているのです。
生かされているのです。
お釈迦さまは、「この人だけのことだろうか」と疑問を呈されているように、苦労して手に入れたものは自分のものだと思いこむことは、決してこの人だけのことではないのです。
苦労して手に入れた家、苦労して手に入れた財産、自分ものと思って暮らしています。
そういう自分のものという思いを離れるためにこそ、修行をするのであります。
しかし、これがまた難しいところで、苦労して修行に励むと、自分は悟った、特別の体験をした、これは自分のものだという思い込みが生じてしまうのです。
苦労すればするほど大きいように感じます。
苦労して坐禅に励むのは尊いことにほかなりません。
しかし、自分が苦労してやったんだと思い込むことは、新たな苦しみを生み出します。
執着になるのです。
苦労しない者をさげすんだりしてしまうことにもなります。
修行の問題点はここにあります。
苦労して坐ったように思っても、坐る為には大地が支えてくれているのです。
苦労して坐ったといっても、その足も、その手も自分で作った、自分のものではないのです。
尺八演奏家の工藤煉山さんと対談した折に、尺八を吹くのに竹を取りに竹林に入って、その竹の命をいただくのだという思いがないと、尺八は吹けないと言っていたことを思い出します。
ついつい、自分で買って使うと、これは自分のものだと思い込みます。
この天地自然の恵みをいただいているのだという思いがないといけないということでしょう。
一所懸命に呼吸を行うのもいいのですが、この一息一息、自分のものではないのです。
一呼吸一呼吸が、大自然のいとなみそのものだと感じることです。
大きな天地のはたらきのままに生かされていることを感じるのが大事であります。
やはり、毎回毎回の食事のたびに、天地一切の恵みに感謝して、いただくという習慣をつけたいものです。
お釈迦さまは、これが自分のものだという思い込みが苦しみを生み出すと説かれたのでした。
苦労することは尊いことなのですが、気をつけないと間違いを犯してしまうこともあります。
苦労することの問題点もある、修行することの問題点もあると自覚して、謙虚に行いたいものです。
横田南嶺