蜂に思う
寺に住んでいると、いろんな虫と共に暮らしているようなもので、蜂に刺されることもムカデに咬まれることもあるものです。
注意して暮らしているつもりなので、近年は蜂に刺されることはありませんでした。
蜂が飛んでいるのを見ると、すぐにどこかに巣がありはしないかと気をつけているものです。
もしも観光客の通るところに蜂の巣でもあればすぐに対応しないといけません。
そのように気をつけていたつもりが、まだほんの小さな巣ができたところだったので、不覚でありました。
チクッと刺されて痛いと感じた時には手遅れであります。
額のあたりを刺されてしまいました。
久しぶりだなと思いながら、すぐに応急処置をしました。
ずいぶん以前に蜂に刺された時には毒を吸い出すのが一番だと聞いて、毒を吸い出す器具を買っていたのを思い出してとり出しました。
そばにいる修行僧に数回にわたって毒を出してもらいました。
自分で確認できないのですが、数回ほど透明な液が出たようです。
蜂に刺されることは今まで何度もありましたが、病院に行ったことはありません。
そのままにしておけば治ると思っています。
しかしながら今回刺されたのは額であり、目にも近いし、そのあとの行事がいろいろ控えていることも考えると、念の為と思って病院に行って処法してもらいました。
すぐに行った応急処置がよかったのか、医者から処方してもらった薬がよかったのか、そのあと痛みもなく、また腫れることもなかったのでした。
蜂に刺されるとけっこう腫れるものです。
腫れるのは仕方ないとあきらめていましたが、腫れなかったのは幸いでありました。
一晩だけ静かに過ごして事なきを得ました。
蜂に刺されていろんなことを思いました。
まず一番に思ったのは、修行僧でなく、自分でよかったということです。
雨戸を閉めるのに、修行僧にしてもらうこともあるのですが、自分で締めようとしていたのでした。
ああ人に頼まずによかったと思いました。
蜂に刺されると人によっては重篤になることもあります。
自分でよかったというのを思いました。
それから蜂に刺されたりしても、腹を立てたり、憎んだりすることはありません。
蜂は蜂の都合で生きています。
こちからからすれば、なにもわざわざ軒先に巣を作らなくてもと言いたいところですが、蜂にとっては軒先だろうが、どこだろうが、関係はありません。
それに刺すのは、自分たちの大事な巣を守ろうとしての行動ですから批難できません。
こちらが、蜂たちの領域に踏み込んだのです。
更に蜂について何か仏典にないかと考えました。
『法句経』には蜂について詠った詩があります。
『法句経』の第四十九番に
蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。
聖者が村に行くときは、そのようにせよ。
とあります。
蜂は花をそこなうようなことはしません。
そのように修行者が托鉢しても、村の人の負担にならないように、静かに最小限施しをいただくのです。
蜂は花をそこなわないばかりか、むしろ花粉を運び、実を実らせるはたらきまでしています。
人から施しをいただいても、できれば相手にも仏法に出会う喜びを与えられるようになりたいものです。
また猿がお釈迦さまに蜂蜜を施したという話も伝わっています。
蜂に刺されてそんなことを思ったりしていました。
それからこの頃気になる話題ですが、蜂が少なくなっているということも耳にします。
農作物の多くは昆虫による受粉の恩恵を受けていると言われます。
果物・野菜・ナッツ・コーヒー・カカオなど、多くの作物が蜂などの昆虫に依存しているのです。
それが今、野生の蜂が多くの地域で減少しているという話を聞いたことがあります。
また虫の数自体が減っているという説もあります。
そう言われてみると、寺にいても虫は減っていると実感します。
蜂に刺されたのも考えてみると久しぶりなのです。
この地上にある生き物はみなお互いに共存してこそ生息できるものです。
仏教では、一匹の蜂や一匹の虫も、大きな生命の網の目の中でそれぞれが大事な役割を担っていると見ています。
昆虫が減少することは、何か大きな影響になるのではないかと思ったりします。
蜂に刺されて考えていました。
それも腫れることもなく、ひどくならなかったおかげでもあります。
横田南嶺