前向きに歩む
これでもう四十七回目となります。
今回のテーマは
前向きに歩む生に徹し、確固たる足で大地に立て
であります。
夏目漱石が二十七歳の頃、円覚寺で釈宗演老師に参禅して、父母未生以前本来の面目という公案を与えられました。
「頭のてっぺんから足の爪先まで悉く「未生以前本来の面目」で充実せよ」という言葉を紹介してくださいました。
これは公案工夫の大事な要点でもあります。
奘堂さんは、東京大学で学び更に京都大学の大学院でも学ばれています。
そして京都の相国寺僧堂で坐禅修行をなされました。
しかし、長い間、「禅定とは何か」「公案とは何か」、自分の中ではっきりと腑に落ちなかっと仰いました。
「丹田を鍛えろ」と教えられても、その鍛えるとはどういうことなのか、実感として分からないまま修行を続けてきたというのです。
そんな奘堂さんが一生貫こうと決意したことというのが、「前向きに歩む生に徹し、確固たる足で大地に立つ」ということなのです。
そしてもう一つ、「頭のてっぺんから足のつま先まで、ことごとく未生以前本来の面目で充実せよ」という言葉です。
この二つは別々ではなく、同じことを表していると言います。
「未生以前本来の面目」とは、生まれる以前から備わっている本来の自己であり、寺に生まれたとか、僧侶であるとか、年齢や地位といった後天的なものではありません。
その本来の命を、全身を通して生ききることが禅の実践だと力強く説いてくださいました。
このことを深く考えるようになったきっかけは、ロンドンの大英博物館にあるフィディアス作とされる古代ギリシャ彫刻との出会いだったというのです。
ディオニソス像の画像を示して詳しく教えてくださいました。
この石の彫刻は血も通わず、呼吸もありませんが、その姿には人間以上の生命力と尊厳が感じられるというのです。
その姿を前にすると、奘堂さんは「本来の面目を生きているか」「腰抜けの人生を送っていないか」と問いかけられているように思えると仰っていました。
奘堂さんは、今回ゲーテの晩年の文章をいくつも紹介してくださいました。
いくつか引用します。
一、 人間の形(君自身)に「人間の尊厳」を打ち立てよ。
二、 すべての自己流の学びの姿勢は自己拷問であると悟り、
早く決別し、真の師に参ぜよ。
三、 君は芋虫や蛹の状態に甘んじていないか。すべて放ち捨て、躍動する蝶々(魂)となって高く飛べ。
ギリシャの最高傑作を認めず、自分の力で「独創的」であろうとしても、ただのパロディ・風刺画にしかならない。
四、 尊厳に満ちた作品を見ずして、あれこれ考えても語っても全く無駄だ。
フィディアスの作品を自分の目で見よ。
直ちに「真の源泉」に赴け。
五、 何としてでもロンドンへ旅をし、できるだけ長く滞在せよ。
比類の無い学びの機会を逃すな。全身全霊で勉強せよ。
という言葉です。
ゲーテ自身は、フィディアスの作品を直に見ることができなかったらしいのですが、多くの人に勧めて、その話を聞いたり、模写した絵を自室に飾っていたそうなのです。
奘堂さんは、かつて教えられた通り、熱心に誤った坐り方を続けた結果、両膝を傷め、手術を受けることになったと言います。
悪いのは坐禅ではなく、自己流の坐り方だったというのです。
痛みを我慢することが修行ではないのです。
本当に大切なのは、「前向きに歩む姿勢」を失わないことだと教えてくださいました。
立つときも、歩くときも、椅子に座るときも、床から立ち上がるときも、常に前へ歩み出せる身体の在り方を保つことです。
その姿勢から自然に正しい呼吸も生まれ、背骨も整っていきます。
呼吸だけを意識したり、背骨だけを意識したりするよりも、まず「前向きに生きる」という心が先にあるべきなのだと力強く説いてくださいました。
そして皆で前向きに歩む心をもって坐る実習を何度も繰り返しました。
奘堂さんのお話を聞いて、その実習を行っていると、自然と腰が立ってきます。
下腹が充実してきます。
足で大地を踏んでいる感覚が蘇ってくるのです。
もっともいくら努力してもフィディアスの作品、ディオニソス像のようにはなれません。
しかし、「フィディアスになれないからといって落胆しなくてよい。
オリンピアのゼウス像が有している高貴な尊厳を、君自身も分け持っているのだ。これを発揮すべく励め。」というゲーテの言葉も引用してくださいました。
本来誰もが高貴な尊厳を持っているというのです。
坐禅をしても、或いは掃除をしていても、草取りをしていてもその高貴な尊厳を発揮できるようにするのだと説いてくださいました。
横田南嶺