鞭の影を見て走る
本文は「世尊、因みに外道問う、有言を問わず、無言を問わずと。世尊座に拠る。」とあります。
「外道」とは、仏教以外の他の宗教・哲学、またはそれらを信奉する人びとを総称した呼称です。
悪い意味ではありません。
「座に拠る」とは威儀を正して坐ること、坐したまま沈黙することを表します。
訳すると、お釈迦様にある異教徒が、有言も問わないし、無言も問わないというと、お釈迦様は黙って坐っていたということになります。
そんなお釈迦さまのご様子を見て、その異教徒は褒め称えて言いました。
「お釈迦様は大いなる慈悲のこころで私の迷いを開いて、私を悟りの世界に導いてくださった」と御礼を言って去って行ったのでした。
その様子をそばで見ていたのが阿難尊者です。
阿難尊者は、そのやりとりを見ていたのですが、なんのことか分からなかったようです。
阿難尊者はお釈迦様に「あの異教徒は何を悟って出ていったのですか」と聞きました。
そこでお釈迦様は、「すぐれた馬が鞭の影を見て走り出すようなものだ」と答えたという問答です。
原文では、「世の良馬の鞭影を見て行くが如し」となっています。
この鞭の影を見て走るという馬の譬えは『雑阿含経』にでています。
意訳するとこんな話です。
この世には四種類の良い馬がいます。
第一の良い馬というのは、馬車につながれ、御者が鞭を振り上げたその影を見るだけで走り出し、御者の様子や意図をよく察するのです。
そして、速く走るか遅く走るか、右へ行くか左へ行くか、すべて御者の心のままに従います。
これが第一の良い馬です。
次に第二の良い馬というのは、鞭の影を見ただけでは気づかないのですが、鞭が毛や尾に軽く触れると、すぐに驚いて御者の意図を察し、その指示どおりに速さや方向を変えることができます。
これが第二の良い馬です。
第三の良い馬というのは、鞭の影や毛に触れただけでは動かないのですが、鞭が皮膚や肉に少し当たると、そこで初めて驚いて御者の意図を理解して、その指示に従って走ります。
これが第三の良い馬です。
第四の良い馬というのは、鞭の影にも、毛や皮膚への軽い刺激にも反応しないのですが、骨にまで達するほどの痛みを受けて、ようやく驚いて御者の命令どおりに進むのです。
これが第四の良い馬だというのです。
どれもちゃんと走ってくれるので、「良い馬」だとされているのだと思います。
この良い馬の譬えをもとにして、お釈迦さまは次のように説かれます。
仏法を学ぶ者も四種類に譬えています。
第一の者とは、他の村に住む人々が病気に苦しみ、ついには死んだという話を耳にしただけで、「自分もまた同じ運命を免れない」と深く恐れを抱き、正しく人生を見つめて反省する人だというのです。
これは鞭の影を見ただけで走る良い馬のようなものだというのです。
次に第二の者は、他人の病や死の話を聞いただけでは心は動かないのですが、実際に病気や老い、死に苦しむ人を目の当たりにすると、自分のこととして恐れを感じ、真剣に人生を見つめ直すのです。
これは、鞭が毛に触れて走る第二の良い馬のようなものです。
第三の者は、遠くの人の老いや病や死を聞いたり見たりしても深く感じることはありませんが、日頃親しくしている人が老い、病み、死んでいく姿を見ると、初めて深い恐れを抱き、人生を真剣に考えるようになります。
それは、鞭が皮膚に当たって初めて走る第三の良い馬のようなものです。
さらに第四の者は、他人の死も、親しい人の老病死も、自分への教訓とはならないのです。
しかし、自分自身が老い、病気になり、死に直面したときになって初めて恐れを抱き、人生を深く反省します。
それは、鞭が骨に達するほどの痛みを受けてようやく走る第四の良い馬のようなものだというのです。
このように説かれると身につまされるものです。
私などが老いや病や死を考えるのは、第三の良い馬のように、身近な人が老い、病になり死にゆくのをまのあたりにした時だと思います。
それでもまた時が来れば、自らが老い、病になり死にゆく者だということを忘れてしまうのです。
『無門関』の公案から『雑阿含経』を調べていて、しみじみと考えさせられました。
横田南嶺