禅僧と老い
今一度、岩波文庫『臨済録』から入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「師が徳山のそばに立っている時、徳山が言った、「ああ、今日は疲れた!」
師「このおやじ!なにを寝言を言うか。」
徳山はそこで師を打った。
師は徳山の坐禅の椅子をひっくりかえした。
徳山はそれでやめた。」
という問答です。
原文は、
「師、徳山に侍立する次で、山云く、今日困(つか)る。
師云く、這の老漢、寐語(みご)して什麼(なに)か作ん。山便ち打つ。
師、縄牀を掀倒す。山便ち休す。」
というものです。
木版本だと、わずか二行の文章であります。
先日の湯島の麟祥院の勉強会では、この二行について一時間講義をしていました。
たった二行ですが、考察してゆくと実に奥深いのです。
まず二人の年齢の考証をしてみました。
これも以前書いた通りなのですが、徳山禅師は西暦七八〇年のお生まれで八六五年にお亡くなりになっています。
臨済禅師は、生年が分かっていないのですが、八六七年にお亡くなりになっています。
里道徳雄先生の『臨済録 禅の神髄』には、臨済禅師が生まれた年は元和年間、西暦八〇六年から八二〇年くらいではないかと書かれています。
八〇六年から八二〇年というと一四年も開きがありますが、だいだいなかほどをとると、臨済禅師と徳山禅師とで三十歳くらいの年齢差があったのではないかと察します。
この問答のとき臨済禅師はまだ修行時代ですから、二十代の後半から三十歳くらいとして、徳山禅師は六十歳ころかと推定されます。
柳田聖山先生が、「客気の青年と、老成した徳山の風格が想定される」と評しておられますが、徳山禅師は老成した頃なのです。
今六十歳で老成というと違和感があります。
私なども六十歳を迎えましたが、とても老成などといえるものではありません。
今の時代ですと「老成」は七十から八十代かと思います。
しかし、これはまだ七十になるのは、古来稀だと言われた時代ですので、六十で十分老成なのです。
かつてある会合で同席した老師が、「もう疲れたよ」と仰るのを耳にしたことがありました。
六十代の老師だったと思います。
当時まだ私は若かったので、この老師はなにを仰るのかと怪訝に思っていました。
今六十を迎えると、そう仰る心境が少し分かってきました。
やはりくたびれるのです。
老いという年齢からくる身体的な要素もありますが、また精神的な面もあるものです。
一人の禅僧も若い修行時代、修行を終えて血気盛んな頃、教化に勢力を注いでいる頃、そして老成してゆく頃、その時々によって変化があるものです。
徳山禅師もまた、若い修行時代、禅を滅却しようと意気込んだ時もありました。
禅に傾倒して今まで学んで来た経典注釈書を燃してしまった頃もありました。
その後、血気盛んで潙山禅師に果敢に問答に挑んだ時もありました。
修行僧を導くようになって、「我が宗に語句無し、実に一法の人に与る無し」
「道い得るも也た三十棒、道い得ざるも也た三十棒」言いとめても三十棒をくらわし、言いとめられなくても三十棒くらわす時もありました。
そして今また「今日は疲れた」とふとそんな言葉を口にするようにもなっているのです。
それから更に臨済禅師が楽普を遣わして問答した頃になると、徳山禅師と楽普は五十四歳も離れていますので、徳山禅師も七十くらいではないかと想像します。
若い楽普を棒で打ちすえようと、まだ気力が衰えていないものの楽普にその棒を受け止められて押し返されてしまいました。
すっと、自室に帰ってゆかれたのでした。
大森曹玄老師は、そんな徳山禅師の姿を「無我無心、遊戯三昧の超脱ぶり」と称えておられます。
そのように受け止めるのが伝統の解釈ではありますが、やはりそこにも禅僧にとって「老」はいかんともしがたいと感じます。
弟子の巌頭禅師から「何物も寄せつけぬ、気骨の峻厳さ強靭さは見事だが、人を導き育てるということになるともう一つだ」と評されているのです。
その麟祥院での講義の午前中は、円覚寺に佐々木奘堂さんにお越しいただいて講座を開いてもらっていました。
奘堂さんからは今回、腰を立てると意識するのではなく、自ら立ち上がろうとして起き上がる所に自ずと腰が立つのだということを学びました。
そして河合隼雄先生の言葉を紹介してくださいました。
河合隼雄先生の『新しい教育と文化の探求』(創元社、194頁)にある言葉です。
一部を紹介します。
「心理療法家としての失敗は、何かしなかったためよりも、何かしたために生じることの方が多いように思われる。
余計なことをしたために強い依頼心をおこさせたり、その人の自ら立ち上がる力を阻害してしまったりすることが多い。」
という言葉が印象に残りました。
こちらが一所懸命にその人の為によかれと思って教えたつもりでも、却ってその人の本来持っているものを損なってしまうこともあるのです。
教化とか接化といって、禅僧は指導しますが、果たしてそれがどこまで届いているのか自問自答することがあります。
森信三先生が「教育とは流水に文字を書くような果かない業である」と仰せになっていることを実感することがあります。
徳山禅師の「今日は疲れた」の一言にもそんな思いを感じるのであります。
とりつく島もないと思われようが、そのとりつく島を与えない、むしろ奪うことこそ、最大の慈悲だと信じて棒で打ってきたのですが、果たしてどこまで届いたのであろうかという思いを感じるのです。
河合隼雄先生は、
「自分の仕事の理想は「何もしないことに全力をあげる」ことではないかとさえ思う。
人びとは自分の力で治ってゆく。自分の力で治ってゆく人の自己治癒の力を最大限に発揮させる最良の方策は、他から余計な力を介入させないことだ。」
と仰せになっている言葉は実に心に響きます。
徳山禅師の峻厳一徹な指導を批評して、その影響を受けながらもその人、その時に応じて自在な接化を試みた臨済禅師も晩年は「室を掩い詞を杜ず」と言葉を発しなくなり、また最後には我が正法眼蔵は瞎驢辺に滅却すると慨嘆されました。
私も今まではこんな読み込み方はできませんでしたが、やはり六十という年齢になってしみじみと感じるのであります。
また語録を単に伝統の解釈だけで読むのではなく、虚心坦懐に読もうと、麟祥院の勉強会で小川隆先生に教わってきた影響も大きいものです。
しかしながら、今の時代はまだ六十歳では老成とは言いがたいのです。
まだまだ「今日は疲れた」など言っておらずに頑張らないといけません。
そして「なにもしないことに全力をあげる」、これは私にとての大きな課題となりました。
横田南嶺