とりつく島もない
経典を大事にして学んでいる徳山禅師にしてみれば、教外別伝などというのはもってのほか、けしからんとばかりに、禅を滅ぼそうという気概で南方に向かいました。
しかし、茶店のおばあさんにやり込められ、龍潭禅師のところで悟りを開くと、今まで担いできた金剛経の註釈書をすべて火をつけて燃してしまいました。
金剛経というお経はとてもよく読まれて信仰もされ、たくさんの注釈書が書かれているのです。
それをすべて燃したのでした。
そのときに松明を掲げて言われた言葉があります。
「諸の玄弁を窮むるも、一毫を太虚に致くが若く、世の枢機を竭すも一滴を巨壑に投ずるに似たり」という言葉です。
どんなに博く学問をして玄妙なる至極の道理を窮めたとしても、この広い大空に一本の毛を置いたようなものだ、世間の事をいくら窮めたとしても、大きな渓谷に一滴の水を落とした程度のものだというのです。
大いなる真理の世界に目覚められたのです。
それからの徳山禅師の教化方法は、専ら棒で打つということでした。
言い得ても、言い得なくても三十棒というのです。
雪峰禅師との問答があります。
雪峰問う、「従上の宗風は、何の法を以てか人に示す」。
師曰く、「我が宗に語句無し、実に一法の人に与る無し」。
というものです。
示すべき何の語句もない、人に教えるようなものはなにもないというのです。
もっともこの教えに対して、巌頭禅師は、
「徳山老人の一条の脊梁骨、硬きこと鉄の似く、拗じ折れず。此くの如しと然雖も、教を唱える門中に於ては、猶お些子を較う」。
何物も寄せつけぬ、気骨の峻厳さ強靭さは見事だが、人を導き育てるということになるともう一つだと評しています。
峻厳一徹であります。
これこそ徳山禅師の真面目です。
妥協を許さない厳しいご性格が分かります。
今まで経典を学んできたのですが、それが却って真理から遠ざかっていることを、身をもって体験したのでした。
そこで、徳山禅師にしてみれば言葉を与えることなど、毒を与えるようなものだと感じていたのだと察します。
しかし、なにも示さないでは、これではとりつく島がないというものです。
「取り付く島もない」とは『広辞苑』に、
「たよりとしてすがる手がかりもない。
また、つっけんどんで相手をかえりみる態度が見られない。」
と解説されています。
まさに徳山禅師のことであります。
しかし、徳山禅師にしてもれば、このとりつく島を与えないことこそ、親切だと感じているのです。
とりつく島を徹底的に否定することこそが慈悲であると身をもって体験しているのであります。
それが三十棒だったのです。
あるとき徳山禅師は上堂して言われました。
今夜はもう問答もしない、何か問う者があったら三十棒だと言いました。
ある僧が徳山禅師の前に進み出て礼拝しました。
徳山禅師はもうそれだけで棒で打ちました。
僧は、何も問うてもいないのにどうして私を棒で打つのですかと問いました。
徳山禅師は、あなたはどこから来たのかと問います。
新羅から来たと答えます。
それなら船に乗る前に、三十棒だと答えたのでした。
痛快なまでの峻厳さです。
臨済禅師は「三教十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙なり。
仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘。」という厳しい表現をなされていますが、これは徳山禅師の影響を受けていると言われています。
徳山禅師は、
達磨是老臊胡、腋臭いインド人だ、
十二分教は是れ鬼神簿、瘡膿を拭う紙、鬼神の名簿、膿拭いの故紙だと説かれています。
しかし、それだけでは不十分だと批評されたのでした。
巌頭禅師が「何物も寄せつけぬ、気骨の峻厳さ強靭さは見事だが、人を導き育てるということになるともう一つだ」と言われたのです。
臨済禅師は、そんな徳山禅師を誰も寄りつけない山の頂上に坐って、人を救済する手段をもっていないと評されました。
それに対して自分は十字街頭という町の中にいながら、世間に迎合することもなく背くこともなく自在に人を導くと述べています。
『臨済録』には
「もしだれかがわしに仏を求めたならば、わしは清浄の境として現れる。もし菩薩を求めたならば、わしは慈悲の境として現れる。もし菩提を求めたならば、わしは清浄微妙の境として現れる。もし涅槃を求めたならば、わしは寂静の境として現れる。その境は千差万別であるが、こちらは同一人だ。それだからこそ『相手に応じて形を現すこと、あたかも水に映る月のごとし』というわけだ。」
と説かれています。
これは岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳です。
どちらがよいというわけではありません。
峻厳一徹の徳山禅師にも魅力があります。
また自在に教化されようとした臨済禅師にもまた魅力があるものです。
とりつく島もないようにみえる徳山禅師ですが、とりつく島を否定することが慈悲だったのです。
今までいろなな教えを学び尽くしてきたような人には、この徳山禅師の接化によって、気がつくことも多かったのであります。
横田南嶺