若き日の徳山和尚
古来禅門では「臨済の喝、徳山の棒」と言われますように、「道い得るも三十棒、道えざるも亦三十棒」と言って、なにか言い得ても三十棒だぞ、言い得なくても三十棒だぞという、実に機鋒の激しい禅匠でありました。
その禅家の代表とも言われる徳山和尚もはじめは、仏教の学問を主に修めていたのでした。
仏教学の伝統では、仏さまになるには,五十二位の階梯があって、それを三大阿僧祇劫というとてつもなく長い歳月をかけて、何度も何度も生まれ変わり死に変わりを重ねてゆくのだと説かれていたのでした。
それが、禅では不立文字教外別伝と言い始め、お経や言葉に依らずに、直に自分の心を見れば仏になると説かれるようになっていたのです。
また「即心即仏」などといって自分の心がそのまま仏であるとも説いていました。
これはそれまでの仏教学の立場からすればとんでもない教えでありました。
それまででは、心を師とせざれと説いていました。
心とはざわめき動き、常に迷いを生みだす張本人だと説かれていました。
それが、その心こそ仏であると説いていたのですから、当時の仏教学からみれば、とても大変な新説でありました。
そこで伝統の仏教学を修めていた徳山禅師も、南方で禅が盛んになっているというのを聞いて、とんでもないことだと思ったのでしょう。
徳山禅師は「出家児は千劫に仏威儀を学び、万劫に仏細行を学ぶも成仏することを得ず」といって、千劫万劫濃やかな修行を重ねてもそう簡単に成仏できるものではないのに、禅では「直指人心見性成仏」などというのは、けしからんとばかりに、南方に押しかけて禅を滅却しようとされたのです。
その様子が、『無門関』には「心憤憤、口悱悱(ひひ)」と説かれています。
「憤憤」はむかむかして心が穏やかでない様子です。
「悱悱(ひひ)」はイライラして胸が痛む様子、いらだつ様子です。
論語に「憤(ふん)せずんば啓せず。悱せずんば発せず」とあります。
要するに悲憤慷慨していたのです。
そこではるばるとわざわざ南方に来て、教外別伝などいう禅を滅ぼしてしまおうと意気込んで来たのです。
そこでまず禅宗の盛んな澧州(れいじゆう)地方から征伐してやろうと思ったのでしょう。
途中でおなかでも空いたか、点心という簡単な食事、おしのぎをいただこうと思って茶店に入りました。
徳山禅師はこれから禅を滅ぼす為に、意気込んで沢山の経典や注釈書を持って行かれたのでしょう。
その大きな荷物を茶店の婆さんがご覧になって、そのお荷物は一体何ですかと問います。
書物でも入っているように見えますが、なんの書物でございますかと聞きました。
それに対して徳山禅師が、これは金剛経という有り難いお経とその注釈書だと答えました。
このお婆さんは相当仏教を学び、禅の修行もなさっていたと思われます。
金剛経の内容もご存じだったのです。
そこで徳山禅師に聞きました。
金剛経の中には、「過去心不可得現在心不可得未来心不可得」と書いています。
過去の心は、それはもう過ぎ去ったことですから捉えようがありません。
現在の心というのも、これまた捉えようがありません。
未来の心は、これはまだ来ていませんので捉えようがありません。
過去の心もとらえようがなく現在の心も捉えようがなく、未来の心もとらえようがない、では、いま「点心」を頼むと言われましたが、いったい何の心を点じようとなさるのですかと聞いたのです。
これにはさすがの徳山禅師も、ウンともスンとも言えなくなったのです。
さて、徳山禅師は、こんな婆さんがここに居るということは、きっとこの近くにすぐれた禅の老師がいるに違いないと思いました。
そこでこの近くに誰ぞすぐれた禅の老師がいらっしゃいますかと聞きました。
すると五里ほど行った先に龍潭禅師がおられるぞと教えてもらって龍潭禅師に参じて悟りを開きました。
龍潭禅師は、徳山禅師のことを、
「この中箇の漢有り、
牙、剣樹の如く、口、血盆に似たり。
一棒に打てども頭を回らさず。
他時異日、孤峰頂上に向って吾が道を立する在らん」
と言われました。
この中にすごいのがおるぞ。
剣のような鋭い歯を持ち、口は血を載せた盆のようだ、棒で打ったところでふり向きもしないというのです。
将来きっと、誰も人も寄りつかないような山のてっぺんにどん坐って、私の禅の教えを大いに挙揚してくれるだろうと言われたのです。
そんな意気軒昂な若き日の徳山禅師が潙山禅師を訪ねたときの問答が『碧巌録』にあります。
岩波書店『現代語訳 碧巌録』にある末木文美士先生の訳文を紹介しましょう。
「徳山が潙山のところにやって来た。旅装も解かずに法堂をあちこち歩き回り、見回して「無い、無い」と言って出た。
徳山は門のところまで来て言った、「やはり軽率であってはならん」。
そこで威儀を正して再び法堂に入り、(潙山に)お目見えした。
徳山は (作法通り) 坐具をかかげて言った、「和尚」。
潙山は払子を取ろうとした。
すると、徳山は一喝して、袖を払って出た。
徳山は法堂に背を向け、草鞋を履くと行ってしまった。
潙山は晩になって首座に問うた、「先程の新入りはどこにいる」。
首座「あの時法堂に背を向けて、草鞋を履くと行ってしまいました」。
潙山「こいつはいまに孤峰の頂上に草庵を結び、仏祖を叱りとばすようになるぞ」。」
という問答です。
いかにも意気軒昂な様子がうかがえます。
かくして「道い得るも三十棒、道い得ざるも亦三十棒」といって大いに独自の禅風を挙揚されたのでした。
横田南嶺