棒と喝
徳山禅師は、徳山宣鑑禅師といって、西暦七八〇年のお生まれで八六五年にお亡くなりになっています。
臨済禅師は、生年が分かっていないのですが、八六七年にお亡くなりになっています。
お亡くなりになったのは、徳山禅師と臨済禅師とで二年ほどしか違わないのです。
まさに同時代を生きた禅僧です。
里道徳雄先生の『臨済録 禅の神髄』には、臨済禅師が生まれた年は元和年間、西暦八〇六年から八二〇年くらいではないかと書かれています。
そうすると、もっとも早く生まれていたとして、八〇六年に生まれたならば、徳山禅師より二六歳お若く、六十一歳の生涯だったことになります。
もっとも遅いとみると、西暦八二〇年のお生まれとすると徳山禅師よりは、四十年もお若いことになります。
お亡くなりになったのは、四十七歳となります。
もっとも短くて四十七歳、長くて六十一歳ですから、だいたい五十代くらいの生涯ではなかったかと察します。
徳山禅師とも三十歳くらいの年齢差があったのではないかと察します。
臨済録には臨済禅師が徳山禅師に出会ったという問答があります。
岩波文庫『臨済録』から入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「師が徳山のそばに立っている時、徳山が言った、「ああ、今日は疲れた!」
師「このおやじ!なにを寝言を言うか。」
徳山はそこで師を打った。
師は徳山の坐禅の椅子をひっくりかえした。
徳山はそれでやめた。」
というのです。
これだけの問答であります。
柳田聖山先生は『仏典講座30 臨済録』の中で次のように解説されています。
「臨済がまだ黄檗の下にいた頃、何かの機会に徳山に参じたことがあったのであろう。
徳山との話はすでに勘弁 [二四]に見られるが、楽普を徳山に遣したのは、晩に鎮州に住した後、すでに一家をなしてからのことである。
今は、臨済なお若き日の事件である。
客気の青年と、老成した徳山の風格が想定される。
この二人は、当初よりいつか相い対決すべき宿命にあった。少なくとも人々はそれを期待した。 この一段は、そうした人々の関心を満足せしめる意図をもつ。」
と解説されています。
およそ三十歳ほどの年齢差がありますので、臨済禅師は修行時代ですので、二十代か三十代の前半として徳山禅師は六十歳くらいのことと想定されます。
今の時代ですと「老成」などというと、八十代くらいかと想像しますが、この時代ですので、六十ともなれば十分に老成でありましょう。
臨済禅師と徳山禅師については次のような話もあります。
これも岩波文庫『臨済録』にある現代語訳を参照します。
「師は、第二代の徳山和尚が、「言いとめても三十棒をくらわし、言いとめられなくても三十棒くらわす」と訓示していると聞いたので、楽普を徳山のもとへやって、「言いとめてもなぜ三十棒ですか」と問わせ、彼が打とうとしたら、その棒をつかんで押し戻し、彼がどうするかを見て来いと命じた。
楽普は徳山へ行って、教わったように問うた。果たして徳山は打ってきた。楽普がその棒をつかんで押し戻すと、徳山はさっと居間へ帰った。楽普が帰って報告すると、師は言った、「わしは以前から、あいつを只者ではないと思っていた。ところで、そなたには徳山が分かったのか。」楽普がもたつくと、すかさず師は打ちすえた。」
というのです。
山田無文老師はこのところを禅文化研究所発行の『臨済録』で次のように提唱されています。
長いのですが引用します。
「その徳山宣鑑和尚が、つねづね雲水に垂示して、「道い得るも也た三十棒、道い得ざるも也た三十棒」と言うておるという噂が叢林の中に伝え知れた。
たとえ、真理にかなう一句を言い得ても徳山は許さん、三十棒ぶち殴ってやる。一句を言えないようならば、これも三十棒ぶち殴ってやる。これが徳山の識見である。
仏を断ち魔を断つというところだ。真理にかなっても殴る。 かなわんようなやつならばもちろん殴り倒すと。そういう噂を聞いて臨済が、隠侍の楽普に言い含めた。
「おまえ、ちょっと徳山のところへ行って来い。そして、『道い得ざるに三十棒は分かるが、真理にかなったことを道い得ても三十棒ぶち殴るというのは道理が合わんじゃないか。どういうわけでござる』と、たずねてみよ。
そうしたら徳山が、さっそくおまえを叩くに違いないから、その叩いた棒をつかまえ、その棒をグンと向こうへ押してやれ、徳山がどうするか、やってみい」
そこで、楽普が徳山をたずねて、「道い得るも三十棒、道い得ざるも三十棒と、あなたはおっしゃるそうじゃが、悟りが開けて答えることができたのに、なぜ叩くのですか」と問うと、果たして、徳山が楽普を叩いて来た。楽普は師匠から言われたとおり、棒の端を持って、グンと押してやった。すると徳山和尚は、サッサと奥のほうに入ってしまった。楽普なぞは相手にしなかった。
楽普が帰って来て、ありのままに臨済に報告すると、臨済、「日ごろあの徳山というやつは、ただの坊主ではないなと思っておったが、なかなかしっかりもんじゃ。おまえなんぞ相手にせんで、サッサと奥に入ってしまったというが、おまえは徳山をどう見て来たのじゃ。それを言うてみい」と、楽普に迫った。ところが楽普は返事ができない。
楽普は言いつけられた事をやっただけで、自分自身には何も肚がなかったのである。 そこで臨済、「これが三十棒だ、おまえのような返事のできんやつは叩いてやるぞ」と言わんばかりに、楽普を叩きつけた。」
というのであります。
花園大学の学長も務められた大森曹玄老師は『臨済録講話』で、徳山禅師の対応ぶりについて、
「はたせるかな、徳山はいきなり打ってきた。
楽普はその棒を受けとめて、これまた教えられたとおりにグーッと押しかえした。
押しかえされた徳山は、ノレンに腕押しで、抵抗もせず黙ってスッと自分の居室へ帰ってしまった。
さすがに徳山である。
一法もさしはさまず、全体作用してみせたわけである。
古人は「歩々清風起る」と、著語しているが、この徳山の“落花を逐って回る”ような無我無心、遊戯三昧の超脱ぶりは、千仏万聖出で来るともウンともスンともいえるものではない。」と説かれています。
徳山禅師と楽普とは五十四歳も歳が離れています。
「道い得るも也た三十棒、道い得ざるも也た三十棒」言いとめても三十棒をくらわし、言いとめられなくても三十棒くらわすといっていた徳山和尚の実に老成し円熟した境涯だと説かれています。
これが伝統の解釈であります。
動乱の時代を八十六歳まで長生きされた方ですので、さもありなんと思うところがあります。
横田南嶺