食べて眠っていればじゅうぶん
どんなものかというと、ホームページに次のように書かれています。
「フリースタイルな僧侶たちは、宗派を超えた若いお坊さんが集まって創刊されたフリーペーパーです。2024年8月に刊行15周年を迎えました。
毎号1万部以上、現在は年2回のペースで発行しています。全国のお寺を中心に、書店、大学、美術館、カフェなどで配布されていますので、ぜひ探してみてください。
フリースタイルな僧侶たちに込めているのは、この雑誌を媒介に、お寺と街、そして宗教と文化の間に、ゆるやかな関係が生まれてほしいという願いです。」
という主旨であります。
先日は、その編集をなさっているお若い僧侶三名がお越しになって取材していただきました。
いろんな話をしましたが、どのように編集してくれるのか楽しみであります。
アンケートの調査を見せてもらいました。
何のためにはたらいていますかという質問に、お金、生活の為というのが57.9パーセント。
自己実現のためというのは28パーセントです。
これについてどう思うか、また私自身はどう思ってはたらいているかという質問でした。
私自身は、あまりはたらいているという実感はないのです。
好きなことを好きなようにやって生きているという思いです。
その点、幸せな人生だと感謝しています。
坐禅は好きでやっています。
好きでやっていた坐禅が本業になってしまい、今やっていることのすべては坐禅の延長線上にあります。
すべて坐禅の変化形だと思っています。
もっといえばどれも坐禅なのです。
立場や肩書きは飾りくらいに思っているのです。
自分の本質は坐禅、坐禅の本質はただ息をしているだけです。
それで十分だと思って生きています。
仕事を辞めたいと思ったことはありますか?
という質問には、90パーセント以上の人があるというのです。
そして「明⽇仕事を辞める」として、最初に思い浮かぶのはどんな感情ですか?という質問には、
「不安」「すっきり、解放」「喜び」「寂しさ、悲しさ」いろいろとありました。
「全体的には、抑圧や不満、あるいは金銭的不安を感じながら仕事を続けている人が多いのではないかと推察できる」といわれていました。
このような結果になるのは、仕事が大変でストレス値が高すぎるからなのではないかというのです。
この大変さ、ストレス値を軽減するにはどうしたらいいかという質問でした。
私は、簡単に考えると、そこでとどまるか、逃げるかの二つに一つでしょうと申し上げました。
ダメだと思ったらもう逃げるしかありません。
それでもまたどこかで生きてゆけるものです。
私自身、修行の世界にずっと生きてきたのですが、たいへんだと思ったのは、やはり若くして師家という役目についたことでした。
自分でただ坐禅して修行するのは、これは望んだことですから、やめようと思ったことはないのです。
しかし、どういうわけか、三十代の半ばで修行僧を指導する役目についたときは、今から思ってもたいへんでした。
自分が修行していればいいというのとは訳が違います。
臨済宗では師家という、修行僧を指導する役目はとても高い地位に就くことにもなっています。
私としては、そんな地位などには何の関心もないのですが、坐る席次もみな定められて窮屈な思いでありました。
やめた方が楽だと思ったものです。
それでもそんな時には、明日逃げだそうと思ってきました。
明日逃げ出せばいいと思うと今日一日はなんとか辛抱できるものです。
そしてまた明日が来れば、明日逃げだそうと思うのです。
この考えで今日一日を生きればいいと思うようになりました。
土台生きていることは目が覚めて服を着てご飯を食べて、排泄して寝るだけの営みです。
もっといえば息を吸って吐くだけの営みです。
これだけをやっていれば立派に生きているのです。
これが坐禅の教えでもあります。
坐って息をしていれば十分なのです。
この坐禅があらゆる場面で救いとなってきました。
取材してくださった若い和尚様は、浄土真宗の方でしたが、臨済禅師の
「諸君、仏法には、造作の加えようはない。
ただ平常のままでありさえすればよいのだ。
糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり、飯を食ったり、疲れたならば横になるだけだ。
愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。」
という言葉を紹介したら、とても関心を持ってくれました。
毎日どうにかご飯食べて排泄して、くたびれたら眠る、それでじゅうぶんなのだと思っているのですと伝えたのでした。
するとどうしてそのように思えるようになったのですかと問われました。
即座に答えたのが、私は幼少の頃から死を考えてきたということです。
死を基盤にしてものごとを考えます。
皆さんは生きているのが当たり前と、生きていることを前提にして考えていると思います。
それでもっと何かをしなければいけないと考えてしまうのではないでしょうかと伝えました。
死を基盤にすると、朝目が覚めてそれだけで幸せなのです。
息をしているだけで奇跡なのです。
坐禅はその事実を常に教えてくれるのです。
坐禅は常に死に帰ることでもあります。
それから今取り組んでいるイス坐禅についていろいろと聞いてくださったので思うままに答えておきました。
浄土真宗の和尚様ですが、イスの坐禅にもとても興味を持ってくれていました。
いろいろと生きていくにはストレスもあり、辛いと思うこともあるものです。
どうにか頑張れれば頑張ればいいでしょう。
辛いことや苦しいことから学ぶことはたくさんあるものです。
仏教で説く解脱は、束縛があるからこそ、解脱があるのです。
苦があるからこそ、苦からの解放があるのです。
この世には生まれたこと自体が苦であると説くのが仏教です。
その中で、目が覚める、ご飯を食べて眠る、そしてこの一呼吸ができる、それで十分なのです。
横田南嶺