全身足となって立つ
これで三十三回目となります。
今回のテーマは、「全身足となって立つ」ということです。
副題に「大なる生命の流の溢出」とあります。
この言葉を聞いただけで、力がみなぎってくるようであります。
その言葉をそのまま体現したのが、奘堂さんご自身であります。
なかなか奘堂さんの説いてくださることは、はじめての人には伝わりにくい一面もあるのですが、修行僧達も何度も拝聴していますので、だんだん分かってきた、よく分かるようになってきたという良い反応なのであります。
なかには、すでに修行道場を出た者なのですが、是非とも奘堂さんの講座を受けたいという者もいるほどであります。
なぜわざわざ来るのかと聞いてみると、元気をいただけるというのであります。
こういう生きる姿勢そのものが腰を立てることに他ならないのであります。
そして、その生きる姿勢が、相手にも伝わるのであります。
奘堂さんは、フィディアス作「ディオニュソス」をご覧になって、「これまで私が学び行じてきた坐禅や禅、仏教のすべてが、ことごとく壊された(流された、焼かれた)」という体験をなさったのでした。
すべてを否定されてしまって、そこから立ち上がるのが禅の修行なのであります。
奘堂さんは実に真摯に、「私がこれまでしてきた坐禅は全部、上辺だけの飾りにすぎなかった」と気づかされたというのであります。
私もまた奘堂さんを通じて、「私がこれまでしてきた坐禅は全部、上辺だけの飾りにすぎなかった」と気づかせてもらってきました。
私が2020年12月15日の管長侍者日記に書いた言葉を引用してくださっていました。
「我を非として当たる者は吾が師なり」という言葉であります。
「我を非として当たる者は吾が師なり。
我れを是として当たる者は吾が友なり。
我れを諂諛(てんゆ)する者は吾が賊なり」
という『荀子』の言葉です。
『荀子』というのは、中国戦国時代の思想家であります。
その言葉の意味は
「自分の欠点を指摘してくれる人はみな、自分にとって先生である。
自分の長所を指摘してくれる人はみな、自分にとって友達である。
自分に媚びへつらう者は自分にとって賊である」
というものです。
その日の言葉の最後には、「ご指導をいただいて、常に腰骨を立てるように意識しなければならないと改めて思いました」と書いたのでした。
今回は、この「常に腰骨を立てるように意識しなければならない」というのでは、駄目だとご指摘いただきました。
常に、我を非として当たってくださるのであります。
有り難いことであります。
腰を立てるように意識して、見た目は腰の立ったような姿勢にしたつもりでも、とても届かないものがあるのです。
白隠禅師の臘八示衆に
「坐禅は一切諸道に通ず。八百万の神、悉く皆身中鎮坐す。
此の如く鎮坐の諸神を祭祀せんと欲せば、脊梁骨を竪起し、気を丹田に充たし、正身端坐せよ」
という言葉があります。
これは何度聞いても素晴らしい言葉です。
私が小学生の頃、はじめてお寺で坐禅して、目黒絶海老師からこの言葉を聞いて感動したのでした。
日本の八百万の神々が皆、私たちの体の中に鎮座してくださっているというのです。
この神々をお祀りするにはどうしたらいいかというと、まず脊梁骨を立てて、気を丹田に充たして、そして身を正しくして坐ることなのです。
脊梁骨を竪起する、気を丹田に充たしめる、そして正身端座、この三つは白隠禅師の説かれた坐禅の基本であると、この言葉から学ぶことができます。
しかし奘堂さんが体現されている坐禅は、そのようなところから現れるのではなく、まさしく「全身足となって立つ」ところからくるものであり、それはまさに「大なる生命の流の溢出」なのであります。
いつもよく引用してくださる西田幾多郎先生の「美の本質」(1920年)にある言葉を示してくださいました。
「芸術的創造の本源はエラン・ヴィタール(生命の躍動)にあるのである。」
「フィディヤスの鑿(のみ)の尖(さき)から、ダ・ヴィンチの筆の端から流れ出づるものは、過去の過去から彼の肉体の中に流れ来った生命の流れである。」
「彼等の中に溢(あふ)るる生命の流れは最早や彼等の身体を中心とする環境の中に留ることができないで、新なる世界を創造するのである。」
という言葉であります。
「視覚作用其物(そのもの)が一つの大なるエラン・ヴィタールの流であるとすれば、芸術は普通の眼と云う如き堀割の中に盛りきれない大なる生命の流の溢出(いっしゅつ)である。」
という言葉もございます。
それから今回は、小林秀雄の『モオツァルト』の言葉も引用されていました。
「僕はハイドンの音楽もなかなか好きだ。形式の完備整頓、表現の清らかさという点では無類である。
併(しか)し、モオツァルトを聞いた後で、ハイドンを聞くと、個性の相違というものを感ずるより、何かしら大切なものが欠けた人間を感ずる。
外的な虚飾(きょしょく)を平気で楽しんでいる空虚な人の好さと言ったものを感ずる。
この感じは恐らく正当ではあるまい。
だが、モオツァルトがそういう感じを僕に目覚ますという事は、間違いない事で、彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞える程の驚くべき繊細さが確かにある。」
というのであります。
それから更に「心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。一と度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ。」
という言葉も引用してくれていました。
単に腰を立てて、良い姿勢を作ったつもりでいても、それは「外的な虚飾(きょしょく)を平気で楽しんでいる」ことに過ぎないこともあるのです。
そうして、奘堂さんは、丁寧に全身、足となって立つことを、五体投地の礼拝の動作で、指導してくださいました。
五体投地の礼拝は、私なども普段毎日行っていますが、いつもは、サッサとリズム良く行っています。
これを丁寧に行うと、随分身体が変化してゆくのであります。
まず身体をすべて床に投げ出します。
額を床につけて、全身を投げ出すのです。
この時に背骨が解き放たれます。
そして足で立ち上がるようにするのです。
足首もしっかりとした状態で立ち上がるのであります。
つま先を立てて、膝で立った姿勢が、一番よく腰が自然に立っていて、その状態で下腹部に手を当てると、力を入れずとも丹田は充実しているのが分かります。
この五体投地から立ち上がるということを何度も丁寧に行いました。
それから、真っ正面を見る、目の大切さも教わりました。
目が死んでいては腰も立ちようがないのです。
しっかり相手を見据える、正面を見る目が大事なのです。
立ち上がるという気概が目に現れます。
奘堂さんも私たち一人ひとりをあの大きな目でしっかり見てくださっているので、その気概が伝わってくるのであります。
腰を立てるということの本質、坐禅の本質を教わることができます。
「全身、足となって立つ」、この言葉を耳にするだけでも腰が立ち上がってくるのです。
横田南嶺