みんなで布薩
五十名の定員で募集しましたところ、大勢の方々のご応募をいただき、やむなく抽選にて開催しました。
何度も礼拝をしますので、ある程度の広さが必要となりますので、五十名にさせてもらったのでした。
応募して下さった方は、布薩について、私がたびたびこの管長日記でも書いていますので、ご存じの方ばかりなのかと思って、お集まり下さった方に聞いてみると、ご存じでない方もいらっしゃったのでした。
そこで、そもそも布薩とは何かというところから話を始めました。
「布薩」については、『広辞苑』にも出ていることばなのであります。
仏教語ではありますが、広く世の中でも使われていたことばなのです。
『広辞苑』には、
「仏教教団で、僧侶が半月ごとに集まって律の条文を読みあげ、互いに自己の罪過を懺悔する儀式。
在家信者では毎月六斎日に八斎戒を守ることをいう。」
と書かれています。
更に岩波書店の『仏教辞典』で調べてみますと、原語のもともとの意味は、「火もしくは神に近住する意」だそうです。
これは「婆羅門教の新月祭と満月祭の前日に行われた儀式を仏教に取り入れたもの。」
だというのであります。
今も原則は新月と満月の日に行うものです。
更に「発展段階に応じて内容や表現に相違が見られるに至った。
半月に一度、定められた地域(結界)にいる比丘達が集まって、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)を誦して自省する集会。」
というものです。
「波羅提木叉」というと聞き慣れないことばですが、
「原語の語義解釈はなお定説を見ないが、歴史的には<別々解脱>あるいは<別解脱律儀>と訳され、また<戒本>とも呼ばれた。
原初的にはすこぶる簡単な徳目であったが、教団発展にともなって、布薩の場で自省のために唱えるのを目的に編集された。
比丘・比丘尼の持する戒条を列記したものであるが、後に在家五戒に始まる種々の禁戒(ごんかい)をも七衆(しちしゅ)の別解脱律儀、すなわち波羅提木叉と称するようになった。」
というものです。
ようするに戒の条文のことをいいます。
『仏教辞典』には「梵網経の十重禁戒なども波羅提木叉と呼ばれている」と書かれています。
六斎日というのは、月のうち8日、14日、15日、23日、29日、30日を言います、
この日には、在家信者が寺院に集まって八斎戒を守り、説法を聞き、僧を供養する法会が盛んになったのでした。
そして、これも<布薩>と称するようになったというのです。
八斉戒については、
在家仏教徒が守るべき、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五戒と、
装身具をつけず歌舞を見ないこと
高くて広いベッドに寝ないこと、
昼をすぎて食事をしないことを加えて八つにしたものです。
『仏教辞典』には「原始仏教以来、僧俗を結ぶ有力な方法として重視され、大乗仏教でもこれを取り入れた」と解説されています。
一カ月の内、六斎日には寺に参って僧を供養したというのが、布薩であり、齋会のもとの意味でありました。
それがこの頃は、こういう戒の条文を読むことも戒を守ることも忘却の彼方にあって、ただお昼ご飯のことを斎というようになってしまったのであります。
一般の方々と行った布薩では、全部で、二十一の礼拝を繰り返すようにしてみました。
はじめの仏様に向かって九回丁寧に礼拝して、それから懺悔文を和文で繰り返しながら三回礼拝し、三帰依を読みながら三回礼拝し、三聚浄戒、十善戒を読んで三拝、最後に四弘誓願を読んで三拝をして終わったのでありました。
戒を読んで自省して大事なことは、守れないことを責めるのではなく、慚愧の心を起すことなのです。
「慚愧」は、『仏教辞典』には「恥じること。自らがおかした悪行を恥じて厭い恐れること。<慚>は自らをかえりみて恥ずかしく思うこと、<愧>は他人に対して恥ずかしく思うこととされる。」
と解説されています。
この「慚愧」の心が、私達と向上させてくれる原動力となるものです。
最後に質疑応答の時間を設けましたら、四弘誓願の意味について聞かれました。
四弘誓願以外は、和文でおとなえしていたのですが、四弘誓願は漢文のまま唱えたのでした。
まず第一に「衆生無辺誓願度」とは生きとし生ける者の悩み苦しみは限りないものですが、これを救ってゆこうと願うのです。
第二に「煩悩無尽誓願断」とは、苦しみの原因となる煩悩は尽きることがないのですが、これを誓って断ってゆこうと願うのです。
第三に「法門無量誓願学」とは、仏さまの教えは限り無くあるのですが誓って学んでゆこうと願うのです。
第四に「仏道無上誓願成」とは、仏道はこの上ないものだけれども誓って成し遂げるように願うのであります。
どれしも達成することはできないかも知れません。
しかしこの願いをもって修行することで道を誤ることがないのです。
たとえば砂漠のようなところで道に迷わないようにするには、星を目指して進みます。
北極星を目指せば必ず北に向かうことができます。
しかし、北極星には永遠に到達することはできません。
それでも北極星を目指していれば北に向かって道をそれることがないのです。
そんなことを九十分かけて行いました。
参加者の方々にはみな満足していただいたようでした。
ゆっくりみんなと礼拝を繰り返すこと、呼吸と合わせて礼拝することで身心が調うと感じたとか、戒の条文を読み合わせて、心が浄められるように感じたとか、有り難い感想をいただきました。
ホトカミの吉田亮さんもご参加くださっていました。
吉田さんは、布薩に参加された感想をSNSに投稿してくださっていました。
その中に、戒については、
「完璧に守れている人は少ないかもしれません。
でも、守れてなかったなぁという振り返りを原動力とし次はできるように頑張って生きてこう!
そうやって、 良い習慣が身につくことで、善く生きていける。
今風にいうと、 幸せに生きていけるというのが、 仏教のスタイルです。
日本が法治国家になる近代以前は、こうした戒が人々の生きる指針となり、 社会というか共同体の秩序が保たれていたのかなと思ったりもしました。
みんなが悪口言わないようになったら、ネットも荒れないですよね。」
と書いてくださっていました。
こういう実践行を通して、一歩一歩仏さまに近づいてゆくのが布薩なのであります。
これからも継続してゆこうと思っています。
横田南嶺