嬉しい一日 -『盤珪語録を読む』増刷 –
有楽町にあるホールだったので、早めに出かけて、相田みつを美術館を訪ねました。
一年の終わりには、毎年訪ねています。
ただいまは、「生きること 書くこと」という企画展が行われていました。
毎回訪ねるたびごとに、妥協を許さずに書ひとすじに打ち込まれた相田みつを先生の生き方には、感動します。
そしてまた自分自身大いに反省させられます。
特に今世界で、戦争がやまない状況で、「ひぐらし」の詩を読むと胸に迫るものがあります。
相田みつを先生は、二人の兄を戦争で亡くしているのであります。
以前相田一人館長にうかがったのですが、兄二人はどちらも非常に成績優秀だったらしいのです。
本来ならば二人の兄が進学して然るべきなのに、家が貧しかったために進学を諦めて丁稚奉公に出たそうなのです。
そのおかげで相田みつを先生は、当時一割ほどの進学率だった旧制中学に進学できたということでした。
しかしその二人の兄が戦争で亡くなったのでした。
その二人の兄の分も生きなければならないというのが、相田みつを先生の活動の原動力になっているのだと思います。
相田一人館長は、相田みつを先生のご長男で、相田みつを美術館の館長でいらっしゃいます。
先日おうかがいした折には、幸いに美術館にいらっしゃって、親しくご挨拶させていただくことができました。
驚いたのは、今年は、大病なされたとのことで、一時は死を覚悟したほどだったとのことでした。
お目にかかった折には、お元気そうにお見受けしたのでしたが、そんなことがあったとは驚きでした。
相田みつを先生は、六十七歳でお亡くなりになっています。
一人館長は、今年六十八歳だということでした。
今の医療技術のおかげなのでしょうが、何が起るか分からないのだとしみじみ感じました。
そのあと臨済会の講演会「禅を聞く会」に参りました。
会場には大勢の方が集まってくれていました。
このところ、臨済会もお若い方々が中心となっていて、ホームページや動画などにも力を入れておられて、告知もよく出来ているからだと思いました。
はじめには、南禅寺の独秀流という御詠歌が奉詠なされました。
独秀流では、尺八やお琴の演奏も加わるのでとても華やかに感じられました。
そのあと、京都瓢亭十五代目の髙橋義弘さんと、南禅寺の管長である田中寛洲老師のご講演でした。
高橋さんは、映像を使って京都の伝統料理のことを分かりやすくお話くださいました。
京都のおもてなしの文化の一端を学ぶことができました。
そのあと田中老師のご講演でありました。
私がまだ京都の建仁寺で修行していた頃にお目にかかって以来、お世話になってきた御老師であります。
今の世にこれほど御修行なされた老師はいらっしゃらないかと思い尊敬している方であります。
ご自身の体験を具体的に話してくださり、三昧という修行について丁寧にお話くださいました。
円覚寺からは修行僧たちも皆拝聴に行きましたので、大いに啓発されたことと思います。
私も今までうかがっていた話でありましたが、改めて講演で拝聴すると身の引き締まる思いでありました。
控え室でご挨拶もできたので有り難いことでした。
寺に戻ると、春秋社から『盤珪語録を読む 不生禅とは何か』が届いていました。
この本は、二〇二一年の六月に出版されたものです。
それがこの度なんと増刷になったのであります。
そもそもこの本は、円覚寺の坐禅会で、『盤珪禅師語録』を講義していたので、コロナ禍となって、YouTubeで講義をするようになって、そのYouTubeで講義したものを春秋社が書籍にしてくださったのでした。
こんな本が世に読まれるとは驚きでありました。
白隠禅師にくらべて、盤珪禅師のことは、あまり知られていないので、多くの方に読んでもらえることは嬉しいことであります。
私達が修行してきたのは看話禅と言われるものです。
白隠禅師の禅は、この看話禅であります。
これがどのようなものなのか、どんな利点があるのか、『盤珪語を読む』のまえがきから引用してみます。
「公案という、意味も分からぬ一則の話頭に、全身全霊を捧げて集中することは、大きな力を生み出します。
精神の集中力というのは大きなものがあります。
人格をも変革してゆく力を持ちます。
そして、その集中の結果得られる体験は痛快であり、仏祖に親しく見えたとの感動をもたらしてくれます。
そうした体験から、語録を紐解くと、あたかも快刀乱麻を断つ如く分かってくるのです。もっとも、それは、看話禅の立場から牽強付会したものであることも多くあるのですが、そのことには気づきにくいのです。」
というものです。
それに対して、
「盤珪禅師の教えをくり返し聞いていると、何ともいえない安らかな気持ちになってきます。
仏心はもとから具わっているのだから、なにも新たに造り出すものではないのです。
何の造作もなしに仏心のままで安らいでいればいいのです。
母の胸に抱かれるような安心感に満たされます。
自己をそのままでいいと肯定してくれているのです。
盤珪禅師の教えは、大いなる自己肯定でもあります。」
という特徴があると言えます。
今の世に盤珪禅師の教えが読まれるというのは大いに意味があることだと思います。
かくして、相田みつを美術館を訪ね、禅を聞く講演会を拝聴し、そして『盤珪語録を読む』が増刷となって、嬉しい一日であったのでした。
年末は慌ただしい日が続きますが、こういう一日があると有り難いことであります。
横田南嶺