何も思わぬ心から
「和顔」を『漢和辞典』で調べてみると、
「①柔和な顔色。ものやわらかな顔色。②顔色をやわらげる。」
と解説されています。
『和顔』のオビには、次のように書かれています。
「裸で、無計画で生まれてきた私どもが、親やまわりの人や、天地のおめぐみで、大きくすこやかに育ち、これからはその人その人にふさわしい花を咲かせるのです。
それは高い教養を身につけ、心の修養を積み、そしてよい人相になることです。
人間がこの世に生まれてきた目的は、仏のような立派な人相をつくるためだと思います。」
ということであります。
親から産んでもらった顔ですが、長い生涯の間に、何を思い、どんな言葉を使い、どんなことをするかで人相というのも大きく変わってくるのだと思います。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「和」の解説の中に、「和顔愛語(わげんあいご)(和らいだ笑顔、親愛の言葉)で人に接することが尊ばれる」という一文があります。
仏教的には「わげん」と読むのであります。
さてその『和顔』の中に、
「何も思わぬという純粋な気持ち」という一章があります。
そのはじめにこんな話を書いてくれています。
「昔の笑い話に、都へ上って学問をしておる子供が帰ってくるというので、お母さんが喜んで宿場まで息子を迎えに行った。
一緒に肩を並べて帰ろうと思って、家へ向かおうとしたら、息子が、「お母さん、どうぞ先へ行って下さい。
私は『三尺下がって師の影を踏まず』と教わりましたが、親の影も先生の影と同じことです。ちょっと離れて歩いていただきたい」と、親と一緒に連れだって歩こうとしなかった。
家へ帰って母親が一所懸命に晩ご飯の仕度をしてやったら、じっとお膳を眺めていて、「割りめ正しからざれば食らわず」と習ったので、この人参や大根の切り目がよくないからいただきません」と箸をつけなかった。
そういう形にはまった杓子定規な道徳というものは、まことに困ったものであり、そういうふうに、どうかすると道徳が形にはまった死物になってしまうのであります。」
というのです。
何事も形にはまってしまうとどうにもなりません。
ではその形にはまらない「その臨機応変のはたらきというものはどこから出てくるかというと、何も思わんところから自然に出てくるのです。
その、何も思わぬという純粋な気持ちをいつも失わないということが、一番大事なことであり、それが「信心」ということであります。」
と説かれています。
至道無難禅師は。
常に何もおもはぬは、仏のけいこなり。
なにもおもはぬ物から、なにもかもするかよし。」
と説かれています。
常に何も思わないのが、仏の道を稽古することだというのです。
その何も思わぬ態度で、何もかもするがよいということです。
先日は都内で臨済会主催の禅を聞く会に拝聴に行っていました。
講師は、京都瓢亭の十五代目の髙橋義弘さんと、南禅寺の管長である田中寛洲老師でありました。
田中老師には、修行時代からとてもお世話になってきました。
私が今日あるのは、田中老師のおかげであるといっても過言では無いのです。
田中老師は修行一筋の老師で、ご講演でもただひたすら呼吸三昧、数息三昧、無字三昧になることの大切さを説いてくださいました。
ただただ無になるのです。
そのことだけをお示しくださり、ただイスで静かに坐禅を指導してくださいました。
至道無難禅師は、
「仏神また天道となをかへて
ただなにもなき心をそいふ」と詠われています。
仏さま、神さま、また天道と名は異りますが、実は無一物の心を指すのだということです。
そして
なにもなき心をつねにまもる人は
みのわさはひはきえはつるなり
と詠われていて、これは何も無い無一物の心境を常に守る人には、身の災いは消え果てしまうということです。
また更に「仏と云、神と云、天道と云、菩薩と云、如来と云、色々難有名は、人の心をかへて云也。
心本一物もなし。
心の動、第一、慈悲なり、和なり、直也。」
とお示しであります。
これは、仏といい、神といい、天道といい、菩薩といい、如来という、これらいろいろな有がたい名は、人の心をいろいろに変えて呼ぶだけだというのです。
心にはもともと一物も無い。
その何もないところから動いてくる心のはたらきは、第一、慈悲であり、和らかであり直であるというのです。
この何もないところから出てくるのでないと、苦しみを産む原因にもなりかねません。
「われなればこそじひすると思ひし人に
つねに心にかけてするじひは
じひのむくひをうけてくるしむ」という無難禅師の法語があって、
これは、自分だからこそ慈悲を行うのだと思う人に言った言葉で、
つねづねに意識して行うような慈悲では、その偽ものの慈悲の報いを受けて苦しむことになるというのです。
ただ無になる、言葉にすると簡単ですが、これが容易ではありません。
無といふもあたら詞のさはりかな
むともおもはぬときそむとなる
と無難禅師も詠われていますように、
無というのも、残念ながら言葉の妨げなのです。
無とも思わぬ時にこそ無になるのです。
その何もないところから自然と慈悲の心が現れてくるのです。
よい人相にもなってくるのです。
無文老師の『和顔』について紹介し、その中の素晴らしい話を紹介した動画を禅文化研究所で公開していますので、関心のある方はご覧くだされば幸いであります。
「漬物嫌いが縁で寺が建つ」という話と
「電気と禅機」という話であります。
横田南嶺