心とは – 六回目のイス坐禅 –
東京駅近くの会議室を借りての坐禅会であります。
仕事帰りの方もご参加できるようにと6時半から坐禅会です。
8時半まで二時間であります。
もっとも二時間じっと坐っているのではなく、姿勢を作るためにさまざまなワークを行ってからイスで坐るようにしています。
これで六回目であります。
前回の終わりに、とある参加者の方から、ヒモトレというのを体験してみたいとお声をかけてくださいました。
私の管長日記を聞いていてくださるのでしょう。
そこでご要望のお応えして、ヒモトレを考案された小関勲先生にお願いして、三十人分のヒモトレのヒモを支度したのでした。
残念ながら、ヒモトレを要望してくださった方は,今回お見えになっていませんでした。
いつものように紙風船の体操からはじめて、身体をあたたため、体幹を調えました。
そして今回は、テニスボールではなくゴルフボールを用意して、それで足の裏を刺激してもらいました。
靴を履いた暮らしをしていると、どうしても足の裏の感覚が鈍くなってしまいます。
毎回タオルを用意して、床に敷いてその上に素足になってもらっているのです。
ゴルフボールを使ったのは、足裏の三点、拇指球、小指球、そして踵を刺激してもらうだけでなく、踵と土踏まずの境目にあたるところを点で刺激して、そこの感覚を覚えて欲しいと思ったからなのです。
そうして踵と土踏まずの境目に注意を向けて立ってもらったのでした。
その上で肩を調える体操も行いました。
これはいろいろ学んできて私が独自に編み出した方法です。
これも好評でありました。
かくして身体を調えて立つことをしっかり時間をかけて行いました。
そこで、ヒモトレノ出番です。
ヒモトレの効果は目に見えて分るので誰かに実験台になってもらおうと思って会場を見渡すと、頼みやすそうな青年がいたので声をかけました。
その青年、なんとホトカミの吉田亮さんでした。
私と対談したYouTube動画も公開されています。
吉田さんに実験台になってもらったヒモトレを体験してもらうと、とても驚いてくれていました。
そんなご様子をご覧いただいて各自ヒモトレを実習して、一本のひもでこんなに身体が変わるのだと実感してもらってから、イスに坐りました。
坐った膝の少し上にヒモを巻いてもらって、頭から足までがしっかり繋がっている状態で坐りました。
一番私自身が心地よく坐れました。
一回目の坐禅では呼吸について何も指示しませんでした。
身体が調えば自然と呼吸も調うです。
そうしてはじめの五十分、いろんなワークと坐禅があっという間に終わりました。
それから、私が臨済録について三十分ほど解説しました。
今回は、心法無形という一節を取り上げました。
岩波文庫の入矢義高先生の現代語訳を用いています。
引用しますと、
「諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。
眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。」
という一節であります。
「心」というのを原文では「心法」と表現されています。
「心法」というのは、臨済禅師のお師匠さんである黄檗禅師の『伝心法要』に用例が見られます。
こちらは、筑摩書房の『伝心法要 苑陵録』から入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「世人は、諸仏はみな心の法を世に伝えたのだと聞くと、心に何か別に証すべく把握すべき法があるかのように 感違いし、そこで心でもって法を探しもとめる。
とんだ考え違いで、心こそは法にほかならず法こそは心にほかならぬのだ。」
というところで諸仏が世に伝えたのは、「心法」だと表現されています。
この心が「眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりする」というのであります。
この心とはどんなものかを説明するのに電気の喩えを用いました。
いま電灯に灯りがついています。
これは電気が通っているから灯りがついているのです。
いくら立派な電灯があっても電気が通っていないと灯りはつきません。
では、その電気はどこにあるのかというと、これが電気ですといって示すことはできません。
この電灯に灯りがついている事で示すしかないのです。
心とは、或いは命とはといってもよいでしょう。
この場合の心というのは、嬉しい、悲しいという感情よりももっと深く根源的なものですから「命」といってもよろしいかと思います。
心とは命とはどんなものか示そうとしても、これですといって示せるものではありません。
この眼で見ている、耳で聞いているというはたらきの中にこそ、心、命は現れているのす。
心は姿形もないのです。
どこにあるかといえば、強いて言うならば十方世界に満ちているのです。
そしてその心こそが仏であると説いたのが馬祖禅師であり、臨済禅師なのです。
終わりに平成二十一年に出版された宮越由貴奈さんの『「電池が切れるまで』という本を紹介して、その中にある詩を読みました。
宮越由貴奈さんは五歳のときに発症した神経芽細胞腫と、五年半にも及ぶ闘病生活の末、十一歳という短い生涯を終えた方です。
悲しい話です。
その由貴奈さんの亡くなる四ヶ月前に書いた「命」という詩です。
「命」
命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ
でも電池はいつか切れる
命もいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけど
命はそう簡単にはとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと
神様から与えられるものだ
命がないと人間は生きられない
でも
「命なんかいらない。」
と言って命をむだにする人もいる
まだたくさんの命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたと言うまで
せいいっぱい生きよう
命は、電池みたいだという表現をなされています。
命をいただいているということは、素晴らしい宝をいただいているのです。
この身体まるごと素晴らしい宝なのであります。
そんな話をして二回目の坐禅に入りました。
二回目の時には、呼吸に意識して坐るようにしました。
これまたあっという間に終わりました。
私自身が身体の疲れもすっかりとれる坐禅会でありました。
まずやってみて自分自身が一番よかったと思える坐禅会でないといけないと思っています。
前日一日京都に行って帰ってきた疲れなどもみな抜け落ちた思いがしたのでした。
今回視覚障害の方がお越しになっていました。
二度目のご参加ですが、声をかけると馬場村塾の大川和彦さんでした。
大川さんのことは、昨年の七月十五日に「みえるて・どんなん」と題して管長日記に書いています。
前回はご挨拶する機会がなく、今回初めてご挨拶させてもらいました。
ホトカミの吉田君や、馬場村塾の大川さんなどにもお越しいただいて有り難いイス坐禅の会でした。
横田南嶺