うれしいことがあると疲れない
先日は、十一月の講義のために花園大学に出講していました。
朝の始発の新幹線で上洛しました。
今までは大学の仕事だけでよかったのですが、この頃は禅文化研究所のお仕事も入ってきました。
九時に研究所に出勤して、年内に公開できるように、短いYouTube動画を三本収録しておきました。
十時には総長室に何名かの来客がありました。
講義は十時四十分からです。
今年は、臨済録に学ぶとして話をして来ています。
今回は、「随処に主と作れば、立処皆真なり」という、この一語を九十分かけてお話してきました。
今回取り上げたのは、
「諸君、仏法は造作の加えようはない。
ただ平常のままでありさえすればよいのだ。
糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。」
というところであります。
こんなことをいうと、
「愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。」
と臨済禅師は説かれています。
そのように説いておいて、そのあとに「随処に主と作れば、立処皆真なり」という言葉が出てくるのです。
「君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。」
と岩波文庫の『臨済録』で入矢義高先生が訳されています。
こういう教えは、馬祖禅師の教えを受け継いでいると考えられます。
馬祖禅師の言葉を、禅文化研究所の『馬祖の語録』から引用します。
「あらゆる法は全て仏法であり、様々な法そのものが解脱である。 解脱は即ち真如に他ならず、様々な法は真如の外に出るものではない。
日常の挙措動作は、どれもこれも思慮を絶した働きであって、特定の時期に枠づけられてのものではない。経に言っている、『ありとあらゆる処に仏は遍満している』 と。」
というところです。
大学の建学の精神は、「禅的仏教精神による人格の陶冶」であります。
そして「その目的は臨済宗の宗祖である臨済禅師が「随処に主と作れば、立処皆な真なり」と言われるように、どの様な状況であっても主体的に行動できる、自立性・自律性を養成することです。」と書かれています。
これはこれで尊い精神でありますが、『臨済録』に説かれている「随処に主と作る」というのは、じつに日常の当たり前のはたらきを尊んだ言葉だと受け取ることができます。
朝始発で出かけて、研究所で動画の収録をして、授業をして、午後から夕方まで研究所で、運営委員会、季刊『禅文化』の編集会議を行って、鎌倉に帰ったのは九時近くでありました。
しかし、その日はほとんど疲れを感じることがありませんでした。
行き帰りの新幹線の中でも読書がしっかりできました。
それはうれしいことがあったからなのです。
一つは大学の教授が是非とも時間をとってほしいということで、総長室に来て下さいました。
何事かと思って話を聞いてみると、今月の十一日に大学で、「第二回京都絵本フェスティバル in花園大学2023」というのを開催されたそうです。
そこで、なんと私の『パンダはどこにいる?』を読んでくださったそうなのです。
そうしましたら、読み手の先生が、この本の内容に共感してくださって、他の人たちにも勧めてくださっているという話です。
他の読まれた人達も感動して、相次いで購入することになったという話なのでした。
実にうれしい話であります。
大学に行くと、いろんな問題について考えさせられることが多いので、つい何か問題でもと思ってしまったのでしたが、うれしい話でありました。
それからお昼に、仏教学部の准教授である余新星先生にお越しいただきました。
余先生は、その折に仏教学部の一年生の方をご紹介してくださいました。
仏教学部には臨済宗のお寺の生まれの方が多いのですが、在家の方であります。
どうして仏教学部に入られたのかと聞くと、仏教に興味をもって是非とも仏教、禅を学びたいと思ったというのです。
高校生の時に岩波文庫の『臨済録』を読んで感動したというのです。
仏教に興味をもったきっかけは何でしたかと聞くと、中学生の頃に学校に行けない状況になってしまって、そんな時にたまたま中村元先生の仏教の書物を読まれたそうです。
そうすると「一切皆苦」という言葉を知って、この言葉に救われる思いがしたというのです。
「一切皆苦」というのは、お釈迦さまの教えの大事なところです。
生老病死をはじめ、この世に生きることは苦しみだというのです。
一切が苦であるというと、なんとお先真っ暗な教えのように聞こえますが、今辛く苦しんでいる人にとっては、そうなんだと、一切は苦しみなのだという教えこそが、救いになるのです。
皆苦しいんだ、苦しんで当たり前なのだと思うことができるのです。
そこで近くのお寺の坐禅会に通うようになり、もっと禅を学びたいと思って仏教学部に入ってくれたというのであります。
実際に大学に入ってみてどうですかと聞くと、学ぶことが楽しいと言ってくれていました。
こういう熱心な仏教学部の学生に接すると、うれしくなります。
朝始発で学校に来るにも苦ではなくなるのです。
うれしい話を聞いて、うれしい出会いがあると、一日はたらいて帰ってきても心地よいのでありました。
こういううれしいことに触れるのが帯津先生の仰る「心のときめき」になるのかと思ったのでした。
横田南嶺