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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.11.19
今日の言葉

腰をすえる

先日佐々木奘堂さんにお越しいただいて、坐禅の講座を行っていただきました。

これでもう32回目となります。

まずはじめに、私が九月十九日の管長日記で書いた、

「腰を立てるということは、単に腰骨をどうこうするということではなく、まず「よしやってやろう」という気概が自ずと腰を立たしめるのであります。

この内面から来る気概がないと、いくら身体をどうこうしてもすぐにもとに戻ってしまいます。 実に腰を立てるということは、生きる姿勢そのものだと思うのであります。」

という言葉を引用してくださいました。

それから、更に十一月十一日の管長日記に書いた

「帯津先生は「認知症を予防するには、免疫力と自然治癒力を高めなければいけない」と説かれています。

それでは、どうすればよいのか、先日の対談の折でも仰ったことは、「心のときめきこそが最大の要因になる」ということでした。

なぜなのかについては、『ボケないヒント』から引用します。

「なぜ心のときめきなのでしょうか。

それに答えてくれたのは、フランスの哲学者、アンリ・ベルクソン (1859~1941)です。

ベルクソンは生物の進化について考察し、進化のためには内的な衝動力、生命の躍動(エラン・ヴィタール)が必要だと論じました。

生命の躍動が生命体を突き動かすのだというのです。

生命の躍動によって内なる生命エネルギーが溢れ出ると私たちは歓喜に包まれます。

その歓喜は単なる快楽ではなく、創造を伴い、自己を向上させるのだというのです」という言葉も引用してくれていました。

それから西田幾多郎先生が書かれた『美の本質』の直筆原稿の画像を見せてくださいました。

そこにも「生命の躍動」エラン・ヴィタールが説かれているのです。

引用しますと、

「芸術的創造の本源はエラン・ヴィタールにあるのである。

フィディヤスの鑿の尖(さき)から、ダ・ヴィンチの筆の端から流れ出づるものは、過去の過去から彼の肉体の中に流れ来った生命の流れである。

彼等の中に溢れる生命の流れは、最早彼等の身体を中心とする環境の中に留ることができないで、新なる世界を創造するのである。

ベルグソンは我々の幼時の人格は極めて豊富なるも、成長するに従って之れを捨てて行かねばならぬと云うが、現実に触れて捨て去らねばならぬ天才の豊富なる生命が、芸術的創作に於てその出路を見出すのである。」

という文章です。

それから、古い映画ですが、「燃えよ、ドラゴン」にある言葉も紹介してくださいました。

Don’t think. Feel!

という言葉です。

これはよく使われている言葉です。

「考えるな。感じろ」という意味でしょう。

そのあとに、

「それは月をさす指のようなものだ。

指に集中するな、そんなことをしていたら、天の栄光を全て失ってしまうぞ。」という意味の言葉を述べています。

ブルース・リーは鈴木大拙の書物を学んでいたことを教えてくださいました。

大拙先生の『禅仏教入門』”An Introduction to Zen Buddhism”の言葉を紹介してくれました。

奘堂さんの訳文を紹介します。

「指は月をさす時に必要だ。だが、指を月と受け取ってしまうなら、それは何と悲惨なことだろう。

こんなことは、ありえないことに思えるかもしれない、だが、私たちは知らず知らず、この種の間違いを何と多くしでかしていることだろう。」

「月をさしている指は、どこまでいっても指のままであり、決して月に変わることはありえないということを、忘れてはならない。だが、指(索引)を月そのものだと受け取ってしまう危険が常に潜んでいるのだ。」

というものです。

「考えるな、感じろ」という言葉も、ただ単にありのままを感じればいいというのではありません。

身体の感覚や、呼吸或いはその時々の意識などに意識を向けるのは、月を指す指のようなものだと奘堂さんは指摘されるのです。

この月を指す指にとらわれるのではなく、まさに生命の躍動、エラン・ヴィタールを今現に生きることだと力説してくださいました。

この生命の躍動というのは、お互いに胎児の頃からもっているものなのです。

今回は、胎児の頃の動きからも学ばせてもらいました。

胎児の動きは生命の躍動そのものです。

全身で生きようとしている姿です。

誰しもそのようにして生まれてきているのです。

奘堂さんは、この生命の躍動をもっとも見事に体現しているのが、ギリシャ彫刻のフィディアスの「ディオニソス像」なのだと仰せになります。

今回も3Dの画像で丁寧に示してくださいました。

他にも生命の躍動を感じることができ、腰がしっかりと入っている様子の画像をたくさん紹介してくださいました。

奘堂さんは、そのような腰をすえた、生命の躍動を感じる姿に触れることでお互いも変わってくるのだと仰います。

この生命の躍動を臨済禅師の言葉で置き換えると、「活潑潑地」になるというのであります。

我々は、指にばかりとらわれて、この生命の躍動「活潑潑地」を失っているのではないかと厳しく指摘してくださいました。

なんといっても、熱い情熱をもって渾身の力を込めて私たちに語ってくださる奘堂さん自身の姿が、まさに生命の躍動、エラン・ヴィタールを体現してくださっていると感じたのでした。

もっとも、ディオニソス像などは、今年入ってきた修行僧にとっては、まだまだ理解が難しいようです。

また頭で理解するものでもないでしょう。

それこそ、考えるな、感じろなのです。

簡単な方法で分るものではない世界があるということも知っておいて欲しいのであります。

それでもこの生命の躍動は、お互い誰しも胎児の頃から具わっているのだと示してくださると、大きな自信とやる気が湧いてくるのであります。

 
横田南嶺

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