「ま」のはなし
「ま」で思い浮かべるのは、まず次に三つであろうと思います。
真に受けるの「真」です。
『広辞苑』を調べると、
「まこと。本当。真実。」
「体言・形容詞などに冠して」
「①それそのものであることを表す。完全である、真実である、正確であるなどの意を表す。」
「②純粋さや見事さをほめる意を表す。」
などの意味があります。
それから悪魔の「魔」です。
これは、仏教語として「修行や人の善事の妨害をなすもの。魔羅。また、不思議な力をもち、悪事をなすもの。」
「不思議な力。神秘的なもの。恐るべきもの。」
「熱中して異常な行いをする者。」
などの意味があります。
「魔が差す」の「魔」です。
それから、「間が悪い」の「間」であります。
この「間」には実にたくさんの意味があります。
『広辞苑』をみても、
①物と物、または事と事のあいだ。あい。間隔。
㋐あいだの空間。すきま。
㋑あいだの時間。ひま。いとま。
㋒特に、人のいないあいだの意を表す。
㋓ある事にあてる一続きの時間。
「寝る間もない」「あっと言う間」という場合です。
②長さの単位。
㋐家など、建物の柱と柱とのあいだ。
㋑畳の寸法にいう語。
③家の内部で、屛風・ふすまなどによって仕切られたところ。
㋐家の一しきりをなしている室。「間どり」という場合です。
㋑室町時代、部屋の広さの単位。坪。
㋒部屋の数を数える語。
④日本の音楽で、拍と拍のあいだ。また、特定の拍や時点。転じて、全体のリズム感。「間のとり方がうまい」という場合です。
⑤芝居で、余韻を残すために台詞と台詞との間に置く無言の時間。
⑥ほどよいころあい。おり。しおどき。機会。めぐりあわせ。
「間をうかがう」「間がいい」という場合です。
⑦その場の様子。ぐあい。ばつ。
⑧船の泊まる所。ふながかり。」
など大きくわけても八つの意味があります。
先日も甲野陽紀先生にお越しいただいて、講座をお願いしていました。
甲野先生の『身体は「わたし」を映す間鏡である』という著書があります。
その本のオビに、七沢賢治先生という言霊学研究者の方が、こんな言葉を書いてくださっています。
オビから一部を引用させてもらいます。
「私は思うのだが、甲野陽紀氏は身体技法を言葉のシステムとして構築した現代でも稀な人物ではないだろうか。
しかも、そのシステムは、だれにも納得できる明晰な体系として示されている。
氏は「身体」と「わたし」という客体と主体の関係性の中に、「間」を発見したという。」
というのであります。
甲野陽紀先生は、武術研究家の甲野善紀先生のご子息であり、一時期甲野先生と共にさまざまな講習会に出ていらっしゃったのでした。
甲野善紀先生が、その自ら体験された術を独自の言葉で伝えられているのを間近に見ながら、学んでいる者には、十分に伝わっていない一面もあることに気づかれました。
ご本人は明確に体得して、それを自分なりの言葉で表されているのですが、言葉というのは受け取る人にとって、意味合いがずれてきてしまいます。
甲野陽紀先生は、また独自の方法で、八割から九割の人が良いと感じてもらえる方法を編み出されているのです。
その基本が一動作一注意です。
ひとつの動作に一つの注意を向けることで身体が変わってくるのです。
今回は、はじめに眉間を学びました。
これは私が、坐禅の姿勢などを指導するのに、いくら腰を立てるようにしても、首が前に出るという習慣がついていてなかなか首の位置を調えるのが難しいと申し上げたことがあったからです。
そこで、私は自分で額を押さえてみたり、頷を抑えてみたり、はたまた耳の後ろの骨を上に持ち上げてみたりと、工夫してきたのでした。
それに対して甲野先生は、眉間に注意を向けるのだと教えてくださいました。
眉間といっても眉と眉の間というより、その上の方であります。
この眉間に注意を向けて立っていると、横から押されても動かないのです。
ところが眉と眉の間に注意を向けると、押されると倒れそうになるから不思議です。
これが誰しも皆そうなるのです。
その眉間を軽く抑えるような気持ちで調えると、自然と頷がさがり、首筋も伸びて綺麗な首の位置に整うのであります。
これは良い方法を教わりました。
間の捉え方では、おもしろいワークを教わりました。
二人で竹の棒を持ちます。
一人が相手を竹の棒で押すのです。
もう一人は押されないように頑張ります。
それに際して三つの注意の向け方があります。
最初は、自分の腕を伸ばすつもりで押す、次に、相手を押すという気持ちで押す、三番目には竹を出すというつもりで押すのです。
すると、一番目も二番目も押してもなかなか相手に踏ん張られて押せないのです。
ところが三番目の竹を動かすと思って押すと、いとも簡単に押すことができてしまいます。
竹を持って踏ん張っている方は、身体が崩れてしまうのです。
これが言葉によっても変わるのです。
相手ともっている竹を出すと言い切って押すと、簡単に押せます。
ところが相手が持っている竹を出すと言ってから押しても押せないのです。
竹の棒は私と相手の間にある、「間」なのです。
これを生活に活かすには、たとえば横になっている人を起そうとするときに、相手を起すというつもりで頑張るとたいへんなのですが、相手に触れたところを動かすと思うと楽に動かせるようになるというのです。
相手に触れたところ、それは自分と相手との「間」なのであります。
甲野先生の講座は、説明が分りやすく、そして誰もがみな体感できるようにしてくれていますので、楽しく学ぶことができます。
三時間があっという間なのです。
「間」というのはいろんな場面で大切なものです。
話をするときも「間」の取り方で伝わり方が変わってきます。
私たちが生きているのは、実にこの「間」で生きているのです。
「間」がないと生きられないのです。
私と相手、私と物、ずっとくっついていたらたいへんで、間があるから生きることができます。
時間もそうです、間がないともちません。
間の取り方が大事だという話を真に受けて、魔が差すことのないようにしたいものです。
この甲野陽紀先生にもっと深く「間」について学びたいと改めて思ったことでした。
横田南嶺