指一本の禅
倶胝和尚という方の話です。
この方は、生没年などははっきりしていません。
倶胝というのも、あだ名のようなものです。
倶胝陀羅尼という陀羅尼があっていつもその陀羅尼を唱えていたから、俱胝和尚と呼ばれるようになったのです。
そんな和尚の庵に、ある日の夕方、一人の尼さんが訪ねてきました。
これは「実際」という名の尼さんでした。
普通われわれでもお寺の中に入るときには笠を脱ぎます。
神社仏閣に入る時は、笠を取るものです。
今でも托鉢や行脚の時には笠をかぶって出かけますが、お寺の門に入れば笠を脱ぐのが礼儀です。
ところがこの尼さんは、倶胝和尚の庵の中に入っても、笠も脱ごうとせずに、倶胝和尚のまわりをぐるっと三回回って、錫杖という杖を突いて、「言い得ば即ち笠を下ろさん」と言いました。
何か一句、禅の端的を表す一句でも言ってくれれば笠を脱ぎましょうと倶胝和尚に言うのです。
倶胝和尚は、突然のことで、何も言えずにいると、同じように和尚のまわりをぐるぐるっとまわって「言い得ば笠を下ろさん」と言います。
さあ何か一句いうことが出来たら笠を取りましょうと迫ります。
残念ながら倶胝和尚はうんともすんとも答えられません。
しかも三回問われて、三回とも何も答えられなかったのでした。
そこでこの実際という尼さんは、この坊さんでは相手にならぬとばかりにさっさと庵から出て行きました。
さてこまったのは倶胝和尚です。
「私は出家した僧侶でありながら、今日は尼さんにこてんぱんにやられてしまった、何とも不甲斐ない」と、そこで意を決して明日の朝にでも、再行脚の旅に出ようと決意します。
純朴なご性格の方だったようです。
このきまじめさが、後に大悟し大成する大きな要因でもありましょう。
尼さんにとっちめられても、まあしかたないとあきらめてしまうようでは進歩しません。
よーしもう一度修行を仕直そうと決意してその晩は休みました。
そうしましたら、夜に夢を見まして、その土地の神様が出てきて、倶胝和尚にいいました。
「お前さん、何もよそに行くことはない、十日ばかりするうちに肉身の菩薩様、生きた菩薩様がここにお見えになるから何処にも行くことはない」と諭します。
果たして十日後に、倶胝和尚の庵に天龍和尚という高僧が訪れます。
倶胝和尚はこの方こそ夢でお告げのあったお方に違いないと思って、尼さんが来た時の一件を話しました。
私は一体、なんと答えたらよかったのでしょうか、どうしたらいいのでしょうかと訴えました。
そうしますとこの天龍和尚は、何も言わずに指をただ一本スッと立てられたのでした。
それを見て、倶胝和尚ははっと気がついた、悟ったのです。
それからというもの、この倶胝和尚は修行僧から何を質問されてもただ指を一本スッと立てて通されました。
こんな話なのです。
この俱胝和尚は、お亡くなりになる時に、修行僧たちに「私は天龍の一指の禅を得た。一生それを使ったが、使い切ることができなかった」と言ったのでした。
無門慧開禅師は、この俱胝和尚の公案を取り上げて、
「倶胝が悟ったところは指にあったのではない。」と指摘されています。
荘子には、「天地一指」という言葉もあります。
この天地を一本の指で表したのだと解釈でもすれば、もう既に遠く隔たってしまいます。
更に無門禅師は、もしここで肝心要のところを看てとることができれば、天龍和尚も俱胝和尚も自分自身も皆同じ世界に生きていることになると仰っています。
無門禅師は、この公案を頌で詠っています。
その最後に、「巨霊手を擡ぐるに多子無し、分破す華山の千万重」とあります。
巨霊神が手を持ち上げるのに何ら面倒なことはない。千万重もの華山を分破したという意味です。
「巨霊」は神話に見える黄河の神です。
巨大な一つの山を華山と岳山のふたつに引き裂き、その間に河を流したという話がもとになっています。
俱胝和尚が、一本の指で修行僧の迷いや分別妄想の山を破壊したことを喩えています。
唐代の禅僧には、この俱胝和尚のように、何を問われてもただ一つで通した方がいらっしゃいます。
たとえば馬祖のお弟子に打地和尚という方がいましたが、何を聞かれても棒を持って地面を叩いたのみというのです。
そこである僧がその棒を隠してから問うと「打地和尚只口を張るのみ」といいます。
いつもの棒がないのでどうしようもなく只あんぐりと口を開くばかりとあります。
それでいて、そこに生きた禅が躍動しているのです。
近代にもそんな禅僧がいらっしゃいました。
秋月龍珉師の『一日一禅』(講談社学術文庫)にある話です。
「没可把」という禅語の解説にあります。
引用しますと、
「没可把は、把握できぬ、捉まえどころがないの意で、また「没巴鼻」ともいう。
近代洞門の英傑森田悟由禅師は永平寺貫首を二十五年も重任した高徳であったが、ふだんどんな問話にも、ただ「没可把」と答えるだけであった。
このことが有名になって、人々がなんとか他の語をいわせようと苦心したが、ついに没可把で通したという。」
という話です。
森田禅師は、天保五年のお生まれで、大正四年にお亡くなりになっています。
俱胝和尚の指もあれこれと考えでとらえられるようなものではないのです。
やはり没可把なのであります。
横田南嶺