不完全の尊さ – 真向法を学ぶ –
佐藤先生には、数年前にもお目にかかったことがあります。
先日真向法協会の会長に就任なされたとのことでご挨拶にお越しくださり、その時の話から、今回修行僧達の為に真向法のご指導をいただく運びとなったのでした。
真向法というのは、長井津先生が創始した健康体操であります。
四つの基本の動作から成り立っています。
私も学生の頃、坐禅をするには、この真向法を行っておくとよいと教わって、毎日続けています。
ですからかれこれ四十年ほど実践していることになります。
そもそも真向法は、長井津先生が、四十二歳の時に脳溢血で倒れて半身不随となってしまい、そんな状態から考案されたものです。
長井先生は、福井県の浄土真宗のお寺のお生まれです。
四十二歳で半身不随となり、心もノイローゼ状態となり、どうしようもない時に勝鬘経を読まれました。
そのなかに「頭面接足礼」という言葉を見つけます。
お釈迦様の足に頭面を接して礼拝したということです。
長井先生は、不自由な身体なりに、この礼拝を一所懸命に行うようになりました。
『健体康心への道 真向法体操』という本には、次のように書かれています。
「しかし人の一念は恐ろしいものです。
動かなかった腰が少しずつ屈伸するようになり、みにくく持ち上がっていた左膝もだんだん畳に近づくようになりました。
と同時に立ったり歩いたりするとき、脚に力が出るようになりました。
お釈迦さまの話を全身全霊で受け取るために謙虚な心身に立ち返ろうとして始めた肉体的修行が、いつのまにか闘病上の効果を発揮するようになりました。
そして三年倒れてから五年目、ついに中風独特の後遺症を克服し、完全な健康を取りもどすことができたのです。」
というのです。
素晴らしい四つの体操なのです。
佐藤先生は、やさしく第一体操から第四体操までご指導くださいました。
最後の第四体操の指導の時に、佐藤先生は、ご自身がこの第四体操が、完全にはできないのだと仰いました。
これには驚きました。
うかがうと佐藤先生は真向法を五十年以上も続けてこられています。
しかも長年真向法の指導を続けて、今は真向法協会の会長でいらっしゃいます。
完全におできになるとばかり思っていましたが、違ったのでした。
そして完全に出来ないから毎日やるのですと仰いました。
その謙虚なお言葉に、私は感動しました。
何事も完全にできればいいというものではないのです。
むしろ不完全なことを自覚して謙虚に毎日行うことこそ大切だと学ぶことができました。
真向法で腰を痛めてしまう方もいらっしゃると聞いたことがありますが、完全な形を求めようとするからではないかと思いました。
不完全なりに毎日努力することなのです。
そんな感動を得たその日に、須磨寺の小池陽人さんが、「不完全 それこそ可能性、そして個性」という法話をなさっていました。
毎日新聞の企画で、画家の柴崎春通さんと対談された話でした。
その中で次のように語っておられました。
「絵の世界では、印象派というのが出て来て、それまでの絵の世界と完全に一線を画しているのだそうです。
印象派の人は決して絵の技術に長けていた人ではない。
ある意味で絵の技術からは挫折してしまった人や落ちぶれてしまった人たち。
でも絵を描くことが好きなのです。もっと良い芸術を求めていろんなことを試すのです。
こういう技法はどうだろうか、こういう描き方はどうだろうかという、その発想の中で、技術を他の何かで埋めようとする、そこに個性が現われてきたときに、人に感動を与えたのではないかというのです。
だから良い芸術というのは、技術だけで感動させるには限界があるのではないか。
いたらなさ、不完全さに人間らしさ、個性が出てきて、そこに良い芸術も生まれてくるのではないか。
技術がある人は技術に溺れてしまうのです。
これは仏道にも通じる。
お釈迦様が仏道において一番邪魔になるものは何かというと、それは傲慢の心なのだと仰っているのです。
傲慢にならない為にどんな心でいるのが大事かというと、それは慚愧の心が大事だというのです。
慚愧というのは、素晴らしい人を敬い、到らない自分を反省する心なのですが、到らない自分を認めるということです。
お釈迦様は、到らないということ、未熟であるということ、不完全であることには、何の問題もないと言っているのです。
未熟であることに気づけたことが大事だというのです。
未熟だと気がつける、到らないことに気がつける人はまた歩めるのです。
もうちょっと頑張ってみようと一歩踏み出せる。
自分は出来ているのだ、技術があるのだと思った瞬間にその先はないのです。
私は、人生において死ぬ迄修行は続くのではないかと思います。
それは、肉体は衰えてくるでしょうけど、心は違うと思います。
心は死ぬまで成長出来るのではないかと思います。
死ぬまで自分はまだまだと、まだ到らない、まだ修行の身なのだと思っている人だけが、亡くなるその時まで修行を続けられるのではないかと思う。
絵の世界でも仏道においても到らないことに気づいている慚愧の心が大事なのだと思います。
到らないことは問題はないのだと考えてくださいました。
大事なのは到らないことに気がついていること、そして気づいたならば少しでも一歩でも先に進むこと、一歩踏み出すということ、自分ができる精いっぱいで毎日生きていくことが大事ではないかと思います。」
というのです。
不完全に感動していた時に、こんな法話をお聴きすることが出来たので、これまたご縁の不思議に感激したのでした。
佐藤先生の真向法の講座はとても明るく楽しくて修行僧達も喜んで学んでいました。
明るく楽しいからこそ、自分もやってみようと、続けてみようと思うようになります。
そして不完全でもいい、毎日やることだと教わると一層意欲が湧くものです。
完全にできるよりも、その不完全な姿にこちらもやる気が湧き勇気がでるのです。
佐藤先生に教わって、真向法の素晴らしさと共に、不完全の尊さを学ぶことができました。
横田南嶺