自己を見つめる – 禅文化研究所のこと –
禅文化研究所には、公益財団法人になった平成二十四年から理事を務めていました。
学生の頃や修行時代から、禅文化研究所の書物にはとてもお世話になっていましたし、今も読み続けています。
少しでも研究所に貢献することが出来ればと思って、理事を引き受けていたのでした。
それがこの度道前慈明老師が所長をご勇退なされ、理事長の松竹寛山老師が所長を兼任されていたのですが、私が所長を拝命する次第となったのであります。
お世話になっている研究所に何か少しでも貢献させてもらいたいという一心であります。
先日禅文化研究所で就任挨拶の動画を撮って、ただいま研究所のYouTubeで公開していますので、どうぞご覧いただければと思います。
禅文化研究所とはどんなところなのか、パンフレットにある言葉を引用します。
「公益財団法人 禅文化研究所は、日本の文学・哲学・教育・美術等の各分野に多大な影響を与え、東洋の精神文化の基幹をなしてきた禅と禅文化を、総合的に研究しその成果を普及するため、禅語録の研究をはじめ、資料調査・資料公開や、広報・普及の諸活動を展開しています。」
というものです。
禅文化普及事業としては、まず研究活動を行っています。
『祖堂集』や『景徳伝灯録』という中国の禅語録を研究してその成果を書籍にしています。
日本の禅語録や禅宗史書の整備もしています。
『元亨釈書』や『近世禅林僧宝伝』などの訓註本を出しています。
印刷物をはじめ、音声、映像など多様なメディアを通じて禅を普及するようにしています。
それから広報・普及活動として、季刊「禅文化」や研究成果の書籍刊行をしています。
公開講演会や一般への講義や講座(サンガセミナー)を開催しています。
それにインターネットによる広報も行っているのです。
また臨済宗・黄檗宗寺院所蔵の宝物調査なども行っています。
花園大学の中に研究所はあるのです。
先日の所長就任の挨拶では、禅文化研究所発行の書籍を一冊紹介しました。
山田無文老師の『自己を見つめる』という本です。
無文老師は、長らく花園大学の学長を務め、また禅文化研究所の所長のお勤めになっていました。
この本の巻頭には次のように書かれています。
「禅はむずかしいとよくいわれます。
花園大学では週に一度、 提唱という時間がございまして、禅についての専門的な講義を聴き、坐禅をすることになっておりますが、どうもそれでは現代の学生諸君にはピッタリせんようです。
第一、漢文で書かれた昔の文章をそのまま引用して講義しておったのでは、漢字そのものが読めんし、何のことやら意味もわからん。
禅の学校で学ぶ学生諸君でさえこういう状態ですから、一般の若い人たちが禅はむずかしいと思われるのも、もっともであります。
しかし、これじゃいかん、このままにしておってはいかんということから、現代の人びとにも通じる平易なことばで禅の心を説いてもらいたいという要望がございまして、今日からわたくしが誰にでもわかりやすい禅のお話をさせていただくことになりました。」
というのです。
ここにある通りに、学生さん達に語ったのが本書になっています。
無文老師は、毎週お話になっていましたが、私は月に一度しか話にゆきませんので、申し訳ない思いであります。
目次を紹介します。
禅を求める若者たち 絶対の真理はどこにあるのか
坐禅のすすめ 身体と呼吸と心を調える
世界は私の家だ お釈迦さまのお悟り
何のために生きるのか 私の歩んだ道
菩薩の道 大乗仏教と小乗仏教
人間に生まるること難し 生命のありがたさ
仏はどこにいるか 衆生本来仏なり
鏡のような心 盤珪禅師のおしえ
念仏と禅 親鸞聖人のおしえ
ほんとうの自分 一無位の真人
日本文化の父 聖徳太子のこと
我は人々のために 今日の中国に学ぶ
日本のこころ 神道と仏教
私はだれか 父母未生以前の面目
菩提心をおこそう 上求菩提下化衆生
なりきる 途中に在って家舎を離れず
試練に耐える 刻苦光明必ず盛大なり
という内容です。
その中にある「仏はどこにいるか」から一部を引用します。
「お釈迦さまは、
一切衆生悉くみな如来の智慧徳相を具有す
とおっしゃっております。
徳相とは、ことばを換えて申しますと慈悲のことです。
つまり、仏性を分析すれば智慧と慈悲になり、人間はすべてみな仏と同じ智慧と慈悲をもっているということです。
仏像で申せば、釈尊像の左右の脇には文殊菩薩と普賢菩薩が立っておられます。
その文殊菩薩が智慧を象徴し、 普賢菩薩が慈悲を象徴していられるのです。
仏の心、つまりお釈迦さまのお悟りを象徴しているのが、文殊と普賢菩薩なのです。
ご本尊が阿弥陀如来でありますと、お脇士は観音菩薩と勢至菩薩になります。
観音菩薩が慈悲で、勢至菩薩が智慧を表わしております。
また、薬師如来のお脇士は日光菩薩、月光菩薩です。
日光が智慧、月光が慈悲を象徴する菩薩であります。
智慧とは森羅万象、見るもの聞くものことごとく自分と別ものでないとわかることです。
自然がそのまま自分、動物も植物もそのまま自分、人類すべてがそのまま自分、自分でないものは世界にひとつもない。
こう見ていけるのが智慧なのです。
そして、世界中のものいっさいが自分なのだから愛さずにはいられん、苦しみ悲しむ人を救い、すべての人が幸せにならねばいられんと思う心が慈悲であります。
そういう智慧と慈悲こそ、人間が本来もっておる仏の心だとわからなければならんのです。
それが自覚されるなら、人間はみな平等だとお釈迦さまがお説きになった本当の意味もわかってこなければならんということになりましょう。」
というところなのです。
実にわかりやすい口調で説かれています。
この本は、昭和五十七年初版発行なのですが、今読んでも心に響いてきます。
禅文化研究所のYouTubeでもなんとか動画を公開してゆこうと思っています。
横田南嶺