一番喜びをもたらすもの
ヨガの本です。
その概略を紹介します。
昔のインドの王様の話です。
あるとき、王様が宮廷で尋ねました。
「人に一番喜びをもたらすものは何だと思うか?」と。
家臣達からは様々な答えが返ってきました。
一人の家臣が「神に仕えることが喜びの至りです」と答えました。
別の家臣は
「陛下にお仕えすることが一番の喜びです」と答えます。
王様のご機嫌を取るのが上手なようです。
また別の家臣は、「陛下のお顔を拝見するだけ最高の喜びです」と言います。
王様はますます嬉しくなります。
ある家臣だけは、こんなやりとりに退屈していました。
王様はその家臣に「人に一番喜びをもたらすものは何だと思うか?」と聞きました。
すると、なんと「糞することです」と答えたのでした。
大便をすることが一番の喜びだというのです。
王様は、激怒しました。
「そんな下品なことをいうとはけしからん、それを証明してみろ」と言いました。
その家臣は、二週間の準備をくださいと言いました。
次の週末に、家臣は王様のために森の狩猟を企画しました。
宮中の全ての女性をこの狩猟に参加させたのでした。
王様のテントが中央にくるようにキャンプを用意しました。
王様のテントの周りは家族と女性と子どもたちでいっぱいです。
そこで件の家臣は最高の食事を作らせて王様に差し上げました。
王様はよく食べました。
そしてこの休暇を楽しんでいました。
翌朝、王様が起きてテントから出るとトイレのテントがありませんでした。
便意が催すものの、トイレがありません。
森の中で用を足そうとしたましが、まわりには女性が大勢いるようにされていました。
お昼頃になるともう耐えられなくなってしまいました。
もうダメだという時になって、トイレのテントができあがりました。
王様はテントに駆け込み、用を足して解放感いっぱいになりました。
テントの外で待っていた件の家臣は聞きました。
「私が先日申し上げた、人生一番の喜びは糞をすることだというのにご賛成頂けますか」と。
王様は「確かにこれ以上の喜びはない」と言ったという話です。
たしかにどんなご馳走をいただいても、出すことができないとこれ以上の苦しみはありません。
ただふだん当たり前に行っていると、そのことの尊さに気がつかないのです。
以前北野元峰禅師の話を書いたことがあります。
余語翠厳老師の『人間考えすぎるから不自由になる』にある話です。
再び引用します。
「永平寺の住職をしていた北野元峰という人にも、似たような逸話があります。
あるとき、北野師が長野県のほうで、学校の先生方を前に話をすることになったのだそうです。
さんざん聴衆を待たせたあげく、北野師は、
「要するに人間というものは食って出すだけのものだ。そういうことを心得ていなさい」といって帰ってきてしまったというのです。
先生方はえらく腹を立てたようだが、北野師は、根本を見据えて生きることの大切さをいいたかったのでしょう。
それを聞いた先生方の一人が晩年になって、ああそうかなと思い当たることがあった、と述懐しています。」
という話であります。
この話を読むと、すいぶんひどい禅師のように感じます。
北野禅師は、幕末の天保13年1842年に生まれて、大正9年永平寺貫首になり曹洞宗管も務めて昭和8年1933年にお亡くなりになっています。
長野まで出掛けるのは、たいへんだった頃の話であります。
時間が遅れてしまうことも無理もなかったと察します。
それにまた次の予定も入っていたとなれば、ほんの一言しか話せないという状況だったかもしれません。
そこで、禅師は、ほんの一言に自分の言いたいこと、伝えたいことのすべてを表現されたのではないかと察するのです。
それが「要するに人間というものは食って出すだけのものだ。そういうことを心得ていなさい」という言葉です。
こんな話を修行時代に読んで感動したものです。
師家になって間もない頃に、学生さん達の坐禅会でこの話をしたことがありました。
ある学生がいたく感動してくれたことがありました。
なんでも人生に行き詰まってどうしようもない時だったらしく、この話に救われたと後に話してくれました。
『臨済録』にもこんな言葉があります。
岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。
糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。
愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。
古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。」
というのです。
ちょうど十月十六日の『日本講演新聞』の社説に水谷謹人さんが書いていました。
引用させてもらいます。
「先月、自殺予防月間のイベントで、「大海原の海中深くに棲んでいる年老いたウミガメ」の話を聞いた。
お釈迦様が阿難(あなん)という弟子に語った話だそうだ。
そのウミガメは100年に一度、海面に顔を出す。果てしなく広い海に1本の流木が漂っていて、その真ん中に穴が開いている。
お釈迦様は言う。「阿難よ、100年に一度浮かび上がるこの亀が、海面に顔を出そうとした瞬間、その流木がそこにあって、その穴に首を突っ込み、その穴から顔を出すことがあると思うか?」と。
「いやいや、お釈迦様。そんな偶然はあり得ません」と答えると、お釈迦様は「絶対にないと言い切れるか?」と念を押された。
「何億年かける何億年の間には、もしかしたらあるかもしれませんが、無いと言ってもいいでしょう」と阿難が答えると、お釈迦様はこう言ったのである。
「阿難よ。我々が人間として生まれることは、この亀が流木の穴から顔を出すことより難しいんだ。有ることが難しいことなんだ」
この話が「滅多に起きないこと」=「有り難い」の由来なのだそうだ。」
というものです。
そもそも人間に生まれたこと自体がありがたいことです。
ご飯をいただいて、大小便を出すだけで、一番の喜びであり幸せなのであります。
横田南嶺