起き上がる心
今回は、まず私が、九月十九日の管長日記に書いた記事を紹介してくださいました。
「八月に私が一燈園で話をした時に語った
「腰を立てるとは、単に身体の腰の問題でなく、(必ず死ぬ自分が人生二度なしを深く自覚し、何のために生きるのか真剣に取り組み)今与えられた場所で精一杯生きる、その強い意志を確立することが、『腰が立つ』ことである」
という言葉も紹介してくださいました。
これは長年探求してきて、つくづく感じることなのです。
腰を立てるということは、単に腰骨をどうこうするということではなく、まず「よしやってやろう」という気概が自ずと腰を立たしめるのであります。
この内面から来る気概がないと、いくら身体をどうこうしてもすぐにもとに戻ってしまいます。
実に腰を立てるということは、生きる姿勢そのものだと思うのであります。」
という一文であります。
これが私もこの頃つくづく感じているところなのです。
今回も奘堂さんは、今回もパルテノン神殿にお祀りされていたディオニソス像を、3D映像を用いて親切に示してくださいました。
ただいまは大英博物館にあるのですが、奘堂さんは実に何度もイギリスに行ってはご覧になっているのです。
アプロディーテーの像も示してくださいました。
これらギリシャのフィディアスの像を拝見した上で、ミケランジェロの作品も画像で見せてもらいました。
そうするとミケランジェロの像は、窮屈で休むことも起き上がることも出来ない状態だと分ります。
今回、岩波新書の『ギリシアの美術』(澤柳大五郎著)にある言葉を示してくださいました。
引用しますと、
「(パルテノンのアフロディテに関して)
この群像を観るためにだけでもひとはロンドンまで行く価値がある。その絶美を伝える力はわたくしにはない。・・・
(ミケランジェロの横たわる女性の彫刻においては)腕はともすれば沈みがちの上体を辛うじて支える。
目覚めようとしながら肉身にはまだその重みを起こすだけの気力を持たない無感覚が全身に漲って居る。
精神と肉体との相克、重心はうしろの方にかかってこのままの姿勢では幾分を堪えられるだろうかというようである。
これに対してパルテノンのアフロディテはいかにもゆったりと横たわった状態から軽やかに身を起こす。…
その身のこなしにはいつでもつと[さっと]立ち上がれる敏捷さが窺われ、些かの努力も見られない全身は各部の微妙なバランスを保って居る。…
この像は均合のとれた面のうちに、些かの渋滞もなくただ精神に従う流動を示す。」
というのであります。
いかにもゆったりとしていて、それでいていつでもサッと立ち上がれる敏捷さがうかがわれるというのが理想だと思いました。
そして些かの努力も見られないで、全身が微妙なバランスを保っているというのも大事なところです。
猫が、寝返りを打って起き上がる映像も見せてくださいました。
実に「このゆったりとしていて、それでいていつでもサッと立ち上がれる敏捷さがうかがわれ、それでいて些かの努力も見られないで、全身が微妙なバランスを保っている」のが猫の様子にうかがうことが出来るのです。
修行僧達も、なかなかディオニソス像を見ても分らない者が多いのですが、猫が起き上がるところにはよく理解が出来たようでした。
それからアントニオ猪木のプロレスの映像も見せてもらいました。
抑えられても身体のバネを使って起き上がるところはよく分りました。
やはり起き上がろう、立ち上がるぞという気持ちが一番なのです。
その時には背骨の角度とか、腰を入れるとかも考えずに、立ち上がるのです。
猫のように些かの努力もなくすっと起き上がるのです。
それから猪木さんが引退セレモニーで語った
この道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ
危ぶめば 道はなし
ふみ出せば その一足が 道となる
その一足が 道である
わからなくても 歩いて行け
行けば わかるよ
という言葉も引用してくださいました。
この言葉は皆でも唱和しました。
プロレスの映像で、猪木が何度も立ち上がろうとしているところで、
アナウンサーが
「明日にでも自殺しようと思っている人がいるかもしれません。
しかし、猪木は逆境から這い上がるということを体現しているわけであります」と言った言葉も印象に残りました。
坐相とか姿勢とかいうと、腰を入れて腰骨を立てて形を作ろうとしてしまいがちなのですが、本質は、やはり内面から立ち上がろうとするから、それが形に現れるのであります。
このように何度も立ち上がる気概、起き上がる心を学ぶことが出来ました。
実習では、五体投地のように全身を床に投げ放って、そこからただ起き上がるということを何度も何度も繰り返して学びました。
修行僧達には、なかなか難しい奘堂さんの講座なのですが、ただ形だけを繕えばいいというのとは別次元のものがあると感じてもらえるだけでも有り難いのであります。
横田南嶺