己を尽くす – 栗山監督から学ぶ –
これらの本からは実に多くのことを学びました。
栗山監督にお目にかかって、まず一番に感じたのは、とても謙虚な方だということです。
常に学ぼうとしている方だということです。
どんな人にも平等に接してくれる方だということです。
「自分はWBCワールドベースボールクラシックで優勝し世界一になった監督なんだ」という思いを感じさせないのであります。
『育てる力』には、北海道日本ハムファイターズが日本一になった時のことについて、
「選手がチームを日本一にしたのであって、栗山英樹は何一つしていない。それは自分が一番知っている」と。
今もその思いは変わらない。勝利は選手のものであり、監督の仕事はただ選手を輝かせることだ。」
と書かれています。
また選手との間柄についても、
「選手やコーチとは、一人の人間として向き合うことを基本にしている。私と選手たちとの会話に禁忌はない。」と書かれているのです。
かつてのプロ野球の監督というと、恐らく選手にとっては雲の上のような存在だったのではと思います。
どうしてこのような素晴らしい人格になられたのか、この著書を読んでいるとよく分ります。
『育てる力』から書き取った言葉のひとつに、
「自分の才能のなさ、体力のなさに愕然として、プロ野球選手としての満足を感じたことがなかった。
しかし今、胸の中心に残って私を奮い立たせるものは、プロ野球選手になることを求め続けた思いや、人知れず努力する自分の姿、引退する時の挫折と悲しみなのである。」
というのがあります。
栗山監督は、お父様が地域の少年野球の監督をなさっていたこともあって、小学校に入って間もない頃から野球を始められたのですが、プロ野球の世界に入るのにも、ドラフトで入ったのではないそうです。
大学は学芸大学を出ておられて、テスト生としてスワローズに入られたのでした。
他のドラフトで指名されて入団した鳴り物入りの選手たちに接して、はじめに愕然とされたと著書に書かれています。
もっとも最初は、同じ人間だから一生懸命に練習に打ち込めば同じレベルに到達することはできると思っていたのでした。
しかし、「いざ練習が始まってみると、自分の認識の甘さをイヤというほど痛感させられた」のでした。
それでもひたすら努力を重ねられたのでした。
努力のかいがあって、一軍の公式戦があと2試合でシーズン終了するという時に、一軍に昇格されたのでした。
しかし二年目になってから、メニエール病という難病に悩まされるようになってしまいました。
立っていられないほどのめまいに悩まれ、また一つのボールが二つにも三つにも見えるというのです。
そんな中を治療につとめ努力を重ねて、ゴールデングラブ賞を受賞されました。
しかし、一九九〇年に現役を引退されたのでした。
それからは野球解説者・スポーツキャスターとして活躍されていました。
そして2011年11月に、北海道日本ハムファイターズの監督就任が決定したのでした。
『栗山ノート』には、その時のことが、次のように書かれています。
「監督について言えば、名将や智将と呼ばれる方々は経験から多くを学んでいるという共通点がありました。
選手としての実績、監督としての成績が選手たちの心を惹きつけ、カリスマ性と言うべき存在感につながっていることも肌で感じることができました。
それに対して私は、誰の眼にも分かりやすい成果を残していません。」
というのであります。
そういう次第で、「そんな私が、監督に?
すぐに返答できるはずがありませんでした。
言葉は出ないまでも、頭のなかでは断りのフレーズが列をなしていきます。」
という状況で、球団の吉村浩ゼネラルマネージャーが
「栗山さん、命がけで野球を愛してやってくれれば、それでいいのです」
と言われたのでした。
栗山監督は、
「天祐というものに恵まれることがあるならば、まさにいまこの瞬間ではないだろうか。それまで暗闇に立ち尽くしていた私は、頭のなかに明かりが灯ったような気がしました。」
と書かれています。
かくして二〇一一年一一月から監督になられたのでした。
『栗山ノート』には、
「私は選手を鼓舞する立場にありますが、私自身が頑張らなければどんな叱咤も激励も虚しく響くだけです。
私自身が精いっぱいの努力をして、選手たちに「一生懸命やるほうがいいな、野球人生が楽しくなるな」と感じてもらうことが仕事です。
それこそが、選手に対する誠の尽くしかたなのです。」
と書かれていますように、一生懸命、精一杯勤められたのであります。
先日お目にかかったときには、新しく出版された『栗山ノート2』を頂戴しました。
この本がまた素晴らしいのです。
世界一を決めたアメリカとの決戦の最後の場面についても書かれています。
三対二で迎えた九回表、二アウトで大谷翔平と同じエンゼルスのチームメイトであるトラウトが、WBCで相まみえたのでした。
『栗山ノート2』にも「こんな場面を作れるのは、野球の神様しかいません。」と書かれています。
更に
「五年前、世界一の選手になれると信じて、翔平をメジャーリーグへ送り出しました。彼が紡いできた物語のクライマックスのひとつとして、この場面が用意された気がしてなりませんでした。」とあります。
また「アメリカでアメリカをやっつけるところまで来ているのです。この場面にふさわしいのは、「心配」ではなく「信頼」です。徹頭徹尾信じられるかどうかです。」と書かれています。
栗山監督は「世界中の野球ファンが見守ったトラウトとの勝負も、私は翔平が勝つと確信していました。」というのであります。
3ボール2ストライクになって、六球目、トラウトのバットが空を切りました。
そこで栗山監督は「よっしゃー! と叫びました。
あとはもう、夢見心地でした。記憶がところどころ抜け落ちているような感じです。
ひとつだけ覚えているのは、選手とスタッフの笑顔でした。
最高の仲間たちが、身体いっぱいに歓喜を爆発させている。
まるでぶつかり合いのように抱き合っている。
選手とスタッフに支えられて、どうにか自分の仕事をまっとうすることができました。この瞬間の感情を表現するなら、「尽己」という言葉の境地だったかもしれません。
「人事を尽くして天命を待つ」というものとはまた少し違って、目の前で起こることはすべて自分の責任ととらえて、自分にできることをやり尽くす。1ミリたりとも出し惜しみはしない、という心境でした。天命を待つというよりも、みんなの喜びのために努力し続ける意味で、より能動的な姿勢かもしれません。」
と書かれています。
己を尽くされた栗山監督なのです。
今回の出会いを通して実にまたたくさんの感動と学びをいただくことができました。
横田南嶺