規律を守るということ – 栗山監督に学ぶ –
ある町に、校則のとても厳しい高校と、緩やかな高校とがありました。
見た目には、校則の厳しい高校は、規律がみごとに保たれていてすがすがしいように見えます。
緩やかな方の高校はというと、それぞれが思い思いの格好で、見た目にはだらけたように映りました。
外からみると、どう見ても、規律の厳しい高校の生徒が素晴らしく見えるのであります。
同じ高校でも規律の厳しさによって、こんなにも違うのかと思ったことであります。
しかし、あるときにその町の警察官の方とお話する機会がありました。
警察の方は、私に実に意外なことを教えてくれました。
夜の町で補導されるのは、その規律の厳しい高校の生徒の方が多いのだというのであります。
そんな話を聞いた時に、規律を守るということはとても難しいことだと思ったものでした。
私たちの修行道場では、この規律の厳しいことを誇りにしている一面があります。
しかし、厳しい規律の裏で何が行われているかは考えさせられるところがあります。
人間というのは、難しいものなのです。
外から厳しく強制させることは、出来るのでありますが、それがよいとは限らないのです。
五祖法演禅師に有名な教えがございます。
よく知られた教えです。
五祖禅師のお弟子の仏鑑禅師が、太平寺にお入りになることになって、五祖禅師においとまの挨拶に来たときに、教え諭された言葉です。
第一に「勢い使い尽くすべからず」
第二に「福、受け尽くすべからず」
第三に「規矩(きく)行じ尽くすべからず」
第四に「好語(こうご)説き尽くすべからず」
という四つのことを自分自身で戒めるようにというのです。
第一に「勢い使い尽くすべからず」というのはどういうことかというと、人間には何事においても勢いというものがあります。
その勢いがあるときこそ慎重にしないといけません。
勢いに乗りすぎてしまうと、禍が起るというのであります。
好事魔多しということにも通じます。
思いも掛けない善いことがあると、その反面に悪いこともあるものです。
調子に乗っていると、ろくなことはないのが世の常であります。
第二に「福、受け尽くすべからず」
人からよくしてもらうことがありますが、それも遠慮しながらいただくことが大切であります。
何でもいただくことが当たり前になってしまうと、感覚が麻痺してしまいます。
いただき過ぎてしまうと、孤独になるというのであります。
人さまからの信施によってお寺の修行は成り立っていますから、なおのこと謙虚な気持ちでいないといけません。
第三に「規矩(きく)行じ尽くすべからず」
規矩というのは禅寺の規則です。
規則をあまりに厳しくしすぎると、人は必ずこれをうるさがるようになるというのです。
第四に「好語(こうご)説き尽くすべからず」
善い言葉というのもあまり説きすぎると、人からは却って軽くみられてしまいがちなのです。
特に三番目の規則の問題は難しいのです。
昔の禅僧は、あまり規則を厳しくして重箱の隅を楊枝でつつくようなことをしてはいけないと戒めています。
かの徳川家康は「天下の政(まつりごと)は重箱を擂粉木(すりこぎ)にて洗い候がよろしき」と言ったと伝わります。
栗山英樹監督の『育てる力』に次の言葉があります。
引用させてもらいます。
「ある会見時、新聞記者の方から、選手がガムを噛んでいることや金髪にしていることについて指摘されたことがあった。スポーツ選手としての在り方、礼節についての意見だった。」
というのです。
確かに規律を守って欲しいという気持ちはよくわかります。
なにせプロ野球の選手というのは、テレビなどにもよく映りますし、その影響は、子どもたちにも及ぶものでしょう。
栗山監督も「私はその通りだと思って聞いていた。」と書いています。
しかし「だが私は、選手には何も伝えなかった。」
というのです。
どういうことかというと、
「監督として、髪を黒く染めろ、人前でガムを噛むなと命令することはできる。
監督から直に言われた選手はそれに従うだろう。
従わなければ、従わない選手だという事実が残るのだから。
ただ言いなりになった、という精神は、他のところで歪みが現れることがある。
押さえつけられたという意識がストレスになるのだ。」
と書かれているのです。
栗山監督は更に、
「髪を黒くしても夜中まで出歩くかもしれない。
ガムを噛まなくなっても、朝まで飲むかもしれない。
ガムを噛んでいても金髪にしていても派手なアクセサリーをしていても、夜、出歩くことなく十分な睡眠を取ってもらったほうが、私はいい。
金髪やガムを噛むことやアクセサリーは、若い彼らの自意識や自尊心の現れだ。
それが満たされることで、ゲームのために万全を期し、ゲームに全力で挑むのなら、私はそれでいい、と考える。」
という考えを書かれています。
頭から否定するのではなくて「若い彼らの自意識や自尊心の現れ」だとご覧になるのは素晴らしいと思いました。
そのように認めた上で、
「命令ではなく彼らを導く方法は、なぜダメなのかを考えさせることだ。」
と書かれています。
具体的にどういうことかというと、
「例えば、憧れの選手を真似て、子どもが金髪にしたとする。
金髪が悪いとは言わないが、やはり悪い友だちとつき合って事件に巻き込まれる可能性が高くなる。
野球選手として、子どもにそれくらい影響力があると思えば、子どもを守るために金髪にしなくてもいいのではないか。
私は時間を掛けてそう問い掛ける。
私に命令されたからでなく、子どものために髪を黒く染めたのなら、それは意味ある自発的な行動として彼らの心に残るからだ。」
と書かれているのです。
規則を無理に押しつけるのではなくて、その影響や意味について考えさせるというのです。
これは素晴らしことだと思いました。
私も修行道場の修行僧を預かる身ですので、大いに参考しようと思います。
横田南嶺