法の為に
亀鑑については、四月二十九日の管長日記に書いたことがありますが、「のり、てほん。亀は吉凶を占うもの。鑑は物を照らすもの。皆のつとり頼るべきものであるからいう。」ものです。
洪川老師は、まず父母が私たちを産み育ててくれたご恩にどう報いたらよいのかと問いかけています。
父母にご馳走を差し上げること、これも尊いことですが、これだけでは修行者としては十分ではありません。
学問で業績をあげて、父母の名を世間に知らしめることも尊いことでありますが、これもまたこれで十分父母の恩に報いることにはならないといいます。
そして更に、
「經呪を誦して父母を弔う。汝が報恩底の事に非ず」と仰せになっています。
お経や陀羅尼を唱えて父母を弔ったとしてもそれでも十分に親の恩に報いたことにはならないというのです。
このことばを聞くと、『歎異抄』にある親鸞聖人のことばを思います。
「親鸞は父母の孝養のためとて、念仏、一返にても申したることいまだ候わず。」
というのです。
親鸞聖人が、亡き父母の追善供養のために、いっぺんであっても念仏をとなえたことは、いまだかつてないというのです。
どういうことかというと、
「そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。」と説かれています。
なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりをくり返す中で、いつの世か、皆父母であり兄弟であったのです。
「いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。」
そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には 仏に生まれて助けなければなりませんというのです。
ご馳走をしても十分ではない、学問で名をあげても十分ではない、お経や陀羅尼を唱えても十分ではないとすると、どうすればいいのでしょうか。
洪川老師は「唯大法の為に辛修苦行して眞の僧寶と為るの一事有るのみ」と言い切っています。
大法とは仏法のことです。
仏法の為に、辛苦修行して真実の僧宝となることだと説かれています。
僧宝とは、三宝の中の僧の宝であります。
元来はサンガという集団を意味していました。
『禅学大辞典』には
「三宝(佛・法・僧)の一。
佛法を修し、これを持している僧は、尊貴なものとして敬すべきであるから、これを宝にたとえていう。
すなわち僧団のことで、各人和合して佛道を修すると共に、他に佛法を教え伝えるものであるから、佛宝・法宝とともに三宝の一と称せられる。」
と解説されています。
法というのは実に多くの意味があります。
まずオクスフォード『仏教辞典』の解説が簡略であります。
「ダルマ
「支える」、「保つ」 を意味するサンスクリット語の動詞ドゥリを語源とし、法と訳される。
ダルマはきわめて重要な用語であり、おもに三つの意味を有する。
(1) 森羅万象のはたらきを物心両面で支える自然の秩序、 または普遍的法則
(2) 仏教の教えの総体、仏教の諸々の教義は、個々人が普遍的法則との調和のうちに生きるようにするため、その普遍的法則を正しく記述し、説明するものであると考えられている。 三宝や三帰依においてブッダ、僧伽と並んであげられるダルマは、この意味のダルマである。
(3) 阿毘達磨の分類法では、ダルマは経験的世界を構成する個々の諸要素を意味する。 これらの要素には認識者の外部に存在するものと認識者の心理プロセスや性格特性などの内的なものとがある。
中観派がその本質的実在性を否定するダルマはこの意味のダルマであり、彼らは、すべての現象は本質的実在性を欠いている(空である)と主張する。」
というものです。
岩波の『仏教辞典』には、
法句経五の
「実に怨(うら)みは怨みによって止むことはない。
怨(うら)みを捨ててこそ止む。これは万古不易の法である」という時の<万古不易の法>は、変らない<真理>の意味の法である。」
と解説されています。
変わらない真理を求めて修行をするのであります。
変わらない真理を明らかにして、尊貴なものとして敬われる僧になることが、真実の恩に報いることになるのであります。
そのことを洪川老師は、大きな家を建てるのに喩えています。
まず、真実道を求める心を地盤します。
地盤を固めた上に礎石を置きます。
礎石は、志願、志です。
その上に柱を立て、梁や棟木をあげるのです。
梁や棟は、真実の悟りであります。
そのようにして立派な建物を築くように、僧としての修行をするのです。
そうすれば、今生の両親の恩に報いるだけでなく、遠い過去、幾代にも亘る親の恩すべてに報いることができると洪川老師は説かれています。
私たちが修行することにはそんな素晴らしい意味があるというのです。
それには「孜孜兀兀」と努力しないといけません。
孜孜とは、「こまめにつとめるさま」を言います。
兀兀とは、「心を一方に注いで動かぬさま。勉めて休まぬさま。勤苦するさま。不動なる。」です。
歳月の久しきを厭わずと洪川老師が仰せになっていますから、年月がかかるのを覚悟して修行するのであります。
そうして参禅修行を続けてゆけば必ず立派な建物ができるように、真の僧宝となるのであります。
「ただ大法の為に辛修苦行して真の僧宝となるの一事あるのみ」の一言は肝に銘ずべきと言い聞かせています。
横田南嶺