亀鑑
亀鑑というのは、修行道場によって様々であります。
漢文の文章でありますが、隱山禅師の亀鑑はよく読まれていますし、南天棒老師の亀鑑もまたよく読まれています。
隱山禅師の亀鑑には、昔慈明禅師が、汾陽禅師のもとで修行していたときに、寒い晩、皆が夜の坐禅を休もうとされましたが、慈明禅師のみは志ただ仏道にあって、夜眠気が襲ってくると錐で自らの股を刺して坐禅された話がはじめにあります。
その話を白隠禅師が読んで、感動して志を起して修行されたことが書かれています。
南天棒老師の亀鑑は、単単とただ古則公案に参究すべきことが述べられています。
円覚寺では今北洪川老師の亀鑑を読んでいます。
そもそも「亀鑑」というのは、どういう意味かというと、諸橋轍次先生の大漢和辞典には、
「のり、てほん。亀は吉凶を占うもの。鑑は物を照らすもの。
皆のつとり頼るべきものであるからいう。」
と解説されています。
亀は吉凶を占うということが、古くから行われていました。
亀には、未来を予知する能力があるとされて、古くは占いに用いられたのでした。
これを「亀卜」と言っています。
「亀卜」の歴史は古く、中国の殷の時代から始まっています。
殷の時代というと、初代湯王が前一五〇一年に夏の桀(ケツ)王を滅ぼして建て、前一〇二三年、三〇代紂(チュウ)王のとき周の武王に滅ぼされるまでの間です。
こんな古い時代から行われていた占いですが、実に令和の時代になっても行われていたのであります。
令和元年の大嘗祭で神前に供えるお米を育てる地域を決めるのに、この亀卜が用いられたのでした。
亀の甲羅をあぶって生じる亀裂の形を基に占う「亀卜」によって栃木県と京都府に決まったという報道がありました。
宮中の行事というのは、そんな古くからの伝統に則っているのです。
実に歴史の重みを感じたものでした。
吉凶を占うというところから、これからどういう方向に進めばいいのかを定めます。
更に鏡を見て自らの身を正すように、自分の今の修行がこれでいいのか省みるのが、亀鑑という文章であります。
洪川老師の亀鑑を意訳してみます。
修行者たちよ、あなたたちは既に世俗の縁から離れて、仏弟子となったのだ。
生計を立てる為に仕事をすることが、あなたたちのなすべきことではない。
ではいったい何によって父母があなたを産み育ててくれた大恩に報いるというのか。
ご馳走を施すこと、それはあなたが恩に報いることではない。
学問に通達して父母を世に顕わすこと、それはあなたが恩に報いることではない。
お経を読んで父母を弔うこと、それはあなたが恩に報いることではない。
では、いったいどのようにして恩に報いるというのか。
それは、ただひたすら仏法のために辛く苦しい修行をして、真に世の宝となるような僧になる一事のみなのだ。
これを喩えると大きな家を建てるようなものだ。
真実の心を地盤として、志願を礎石として、真実の悟りを棟梁として、一心に勤め励んで、朝に晩に参禅をして、長い年月がかかることも厭わずに、親切に修行したならば、将来きっと大きな家屋を造って、みごとな建物を築くことになるのは間違いない。
そうしてはじめて真に世の宝となる僧と言えよう。
そうなると、ただ単に今生の父母の恩に報いるだけではない、過去百回も千回も生まれ変わってきた、それら親のご恩を一時に報いることになるのだ。
心を明らかにして本性を見ることの功徳はなんと大きいことか。
ただひたすら修行する者は、二祖慧可大師の断臂の話や、臨済禅師が純一に修行されていた頃の様子や、慈明禅師が夜錐で股を刺して目を覚まして修行した話などを思い起こして、日々努力し、一時も休まずに勤めて、わずかの時間も怠ることがないようにしなさい。
古徳が説かれたではないか、仏道に入門して真実に目覚めることがなければ、今度は動物に生まれ変わってきて、この世でいただいた信施をお返しすることになるぞ。
恐れるべきであり、慎むべきであり、努力し精進すべきである。
だいたいこのような意味です。
洪川老師はもと儒学者でありましたので、孝行ということを大切になされているのです。
「孝は百行の本」といって、親孝行は、すべての善行の基本となるものであるということが古来言われているのです。
親の恩に報いるというのは容易なことではありません。
私なども今からもう三十年以上前に、円覚寺に修行に来て、当時の師家であった足立老師が、この亀鑑を読まれるのを聞いて身の毛のよだつ思いがしたものです。
それまで折をみては、両親に菓子などを送っていましたが、そんな程度のことで父母の恩に報いることにはならないというのです。
ひたすら修行して世の宝となるような僧にならなければ、恩に報いることにはならないのだと思って修行をしたのでした。
そんな感動をもって聞いた亀鑑なので、毎年一度は必ず講義をしています。
「これまで親の恩が分らなかったと解った時が、真に解りはじめた時なり。」「親恩に照らされて来たればこそ、即今自己の存在はあるなり。」とは森信三先生の言葉です。
親の恩に報いるにはどうしたらいいか、常にそのような意識を持つだけでも、人生は大きく変わってくるものです。
洪川老師の書かれた文章をてほんにして、これでいいのか反省しながら修行してゆくのであります。
横田南嶺