知るということ
少し間が空いて、久しぶりの椎名先生の講座でありました。
いつもながらお元気、健康そのものの椎名先生に接すると、私どもも元気をいただくことができます。
この度、円覚寺にお越しになって、その緑、風の爽やかさ、鳥の鳴き声などに感動しつづていらっしゃいました。
この春に修行道場に来た者にとっては、初めての椎名先生の講座となります。
まず椎名先生は、「知る」というのはどういうことだと思いますかと問われました。
ある修行僧は、「自分のものにすること」だと答えていました。
「見たり聞いたりすること」という答えもありました。
見たり聞いたりしただけで、知っていると言えるかどうか疑問であります。
「理解する」という答えもありました。
「広がる」という答えもあって、これには椎名先生も驚かれていました。
私もどういう意味かなと不思議に思いました。
その修行僧はこのように説明してくださいました。
たとえば、花の名前を知ると、それだけ景色が広がるのだというのです。
これには椎名先生も感激されていました。
たしかにそうです。
椎名先生は、立てば芍薬坐れば牡丹という言葉を紹介して、かつては芍薬も牡丹もよく分からなかったのが、その名前を知り、どんな花かを知ることによって、世界が一層広がったと解説してくださいました。
そこで椎名先生は、私たちは自分のことをどれくらい知っているか、皆に質問されました。
百%から、九割、八割、七割、六割、五割と、どれくらい知っていると思うか、それぞれの割合のところで手をあげさせていました。
さすがに百%で手を挙げる人はいません。
九割、八割、七割、六割でも誰も手をあげません。
五割になって初めて五名の修行僧が手をあげていました。
これが不思議と五名共にこの春修行に来た僧達でした。
その他には三割が三人、二割も三人、一割も三人でした。
ゼロというのも五名もいたのでした。
椎名先生は、ご自身一割未満だと仰せになっていました。
私もそんなものだろうと思います。
椎名先生は、長野県上田市で田んぼを耕してお米を作っていらっしゃいます。
もう八年にもなるそうなのですが、八年やってもなにも分からない、むしろやればやるほど分からなくなると仰っていました。
よく農家の方は、毎年一年生なのだと聞いたことがあります。
以前にも囲碁と将棋の話を書いたことがあります。
囲碁の本因坊クラスの棋士と、将棋の名人クラスの棋士とが対談した話です。
碁と将棋の神様が百として、我々はどれだけ知っているかと紙に書いてみせあった。
囲碁棋士は「6」、将棋棋士は「4か5」と書きました。
囲碁将棋界きっての天才だが、これほどまでに謙虚な気持ちの持ち主で、「5」や「6」の壁に苦しむ求道者でもあったというものです。
囲碁のプロが「我々プロも町家の人も大して変わらない、誰も囲碁の真髄はわからない」と述べていたのでした。
体の内臓のことをどれくらい知っているか、それぞれ白い紙に書いてみるように言われました。
私も皆と一緒に書いていましたが、昨年椎名先生に教わったおかげで、肺、心臓、胃、肝臓、胆嚢、腎臓、脾臓、小腸、大腸、膀胱などは分かるようになりました。
それでも一部ですし、からだのすべてなどとても分からないのです。
それぞれの臓器がどんなはたらきをしているかも分かりません。
まして況んや心のこととなると、ほとんど分かってはいないのです。
知るということを考えていくと、いかに知らないかということが分かってくるのです。
それからはいつものように仙骨を立てることから始めてくださいました。
パルテノン神殿の柱は、一本の部材ではなく、いくつもの円筒形の巨石を積み重ねたものだというのです。
垂直に積み重ねているからまっすぐの柱になっているのです。
そのように私たちも骨盤、仙骨、肋骨がまっすぐに積み重ねるように立つことが大事だと教わりました。
横から見ると、大転子という大腿骨の付け根の曲がった突起部位と肩の付け根、耳の付け根、頭頂までが一直線に並び、大地に垂直になっているといいのです。
これが、どうも骨盤が後傾したり、前傾したりしてしまいがちです。
まっすぐになると、上半身は脱力してゆるみ、下半身はどっしりとします。
こうなると自然と深い静かな呼吸になるものです。
かくして二時間半の講座があっという間に終わりました。
講座のはじめに「知る」ということは、どういうことかと問われましたが、自分のからだだと思っていても、如何に知っていないかと知ることとなりました。
講座の最中に、ヒバリなどの鳥がきれいな声で鳴いてくれていました。
その声がするたびに、感動されている椎名先生でした。
まるで鳥とも会話なされているようでありました。
長野県上田市で、田んぼを耕し、大自然と共に暮らしておられる感性であります。
終わった後に、国宝舎利殿をご案内し、更に修行道場で実際にご飯を炊いている竃などをお見せすると、とても喜んでくださいました。
薪割りをして竃でご飯を炊く暮らしなどは、今の時代では、最高の贅沢かもしれません。
ただ修行している間には、そのことには気がつかずに早く自由になりたいとばかり思うものです。
私たちは普段何気なく行っているのですが、椎名先生が感激されている様子が印象的でした。
五月の大摂心の前に、元気をいただいた思いであります。
横田南嶺