修行と自我
仏法には、無我にて候ううえは、人に負けて信をとるべきなり
というのがあります。
もっとも無我というのは、お釈迦様の教えの基本であります。
三法印と言います。
1,諸行無常=あらゆる現象は変化してやまない、
2,諸法無我=いかなる存在も不変の本質を有しない、
3,涅槃寂静=迷妄の消えた悟りの境地は静かな安らぎである
仏教教理の特徴を表すものであります。
無我というのは、大切な真理であります。
修行というのは、この三つの真理を明らかにしてゆくものであります。
ところが、修行をすることによって、自我が強くなってしまうことも、中にはあるものです。
修行して無我になり、慈悲深くなるのが理想であります。
同じ修行をしながら、自我が増大してしまうのと、自我が減って慈悲深くなる場合と、どこでどう異なるのか、深く考えさせられます。
なにが自我を増大させてしまうのか、先日修行道場で修行僧達と話し合っていました。
一人は、集団になると、自我が増えるのではないかと言っていました。
元来集団で修行するというのは、自我を主張させない為のものだと思いますが、みんなでやったのだという思いが強くなることもあるのでしょう。
ある修行僧は、修行道場に長く居て、道場の運営に携わったりして、「役位」とか「評席」とかいう役につくと、特別な意識がはたらいて、特権が与えられたように勘違いし、自我が増大することになりかねません。
またある修行僧は、苦行が自我を増やすことにもなると言っていました。
これも一理あります。
お釈迦様が苦行を否定して、中道を唱えられましたが、苦行の問題もあります。
肉体に苦痛を感じることをすると、人はそれに意味づけをしたいものです。
こういう苦を耐えたのだという特別な意識を持ってしまいがちです。
苦行は自我増大についても大きな問題をもっています。
それから私は、静かなところで坐っていたい、長い時間坐っていたいという、坐ることへの執着も自我を生み出すことになりかないと思います。
結局はなにかに対する執着が自我を生み出すのでしょう。
静かなところでじっと坐っていると、それは何か修行している気がするものです。
しかし、それが執着になると困りものです。
白隠禅師も、お若い頃には、日常の活動を嫌って静かな所を好んで静かなところを選んでばかりいたと仰せになっています。
そのことを、若いときは修行の方法を誤っていたと仰せになっています。
これは私なども全く同じなのであります。
少しでも坐らなければという思いばかりが強くて、空回りしていました。
坐ろうとすると、かえって雑事と思われるようなことを言いつけられて、そのたびに内心で腹を立てながら修行していたものです。
今にして思えば、坐ることに固執することを戒めて下さっていたのでした。
また臨済の修行では、動中の工夫は静中に勝ること百千億倍すとよく言われるのです。
日常の動いている中で修行しろというのです。
静かな中でじっとしていることを嫌うのであります。
笑い話でよくするのですが、円覚寺でかつて土曜や日曜の坐禅会をしていて、中で一生懸命坐っている人が、まわりの観光客の方がうるさいというので、坐禅堂から外に出て「うるさい、静かにしろ、坐禅中だ」と怒鳴っているのを見たことがありました。
私はしみじみあなたが一番うるさいのにと思ったものでした。
自我は慢心を生み出します。
「慢」というのは、「他と比較して心の高ぶることをいい、自ら自己におごり高ぶることを<憍(きょう)>という」ものです。
慢はふつう、慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢(じゃまん)の七慢に分けられます。
それぞれどういうことかというと、
第一の「慢」というのは、自分より劣ったものに対して、自分の方がすぐれていると思うことです。
第二の「過慢」とは、自分と対等のものに対して、潜在的に自分の方がいいと考えていることであり、自分よりすぐれたものに対して、あれくらいは大丈夫と思うことです。
三番目の「慢過慢」とは、自分よりすぐれたものに対して自分の方がすぐれていると思いこむことです。これも当たり前のようですが、慢心のひとつなのです。
四番目が「我慢」、自分にこだわって、自分の方が相手よりすぐれていると思い上がることです。一般に我慢は我慢するといって辛抱することに使われていますが、本来は慢心のひとつです。
それから五番目が「増上慢」です。まだ分かっていないことを、さも分かっているかのようにふるまうことです。まだ悟っていないのに悟ったと思う慢心であります
六番目が「卑慢」で、自分よりはるかにすぐれた者に対して、たいしたことはないと思うことです。
七番目が「邪慢」で、自分に全く徳がないのに、徳があると思いこむことです。
ちなみに「卑下慢」というのがありますが、これは卑慢と同じです。
慢の一種で、自分より数段勝るものに対して、少しく劣るのみと思って慢心することですが、また通俗的には、へりくだっているふりをして、実際には自慢する意にも用いられています。
よく挨拶で、「甚だ僭越ながら」とへりくだっているように見えながら、自慢していることがございます。
そういう慢心にならないには、常に自分の足らないところを自覚して謙虚に学び続けることしかないと思うのであります。
横田南嶺