臨済という人
『広辞苑』には、
「臨済宗」について、
「禅宗の一派。臨済義玄を祖とする。
中国禅宗中最も盛行。
日本では鎌倉時代に栄西が伝えたのに始まり、室町幕府は京都・鎌倉に五山を定めて保護した。
公案によって弟子を教化する看話禅の立場をとる。
現在15派に分かれる」と解説されています。
臨済という人を祖としている宗派なのです。
では、臨済義玄というのはどういう人かというと、『広辞苑』には、
「唐の禅僧。臨済宗の開祖。
曹州南華(山東省)の人。
黄檗希運に師事して得道し、河北鎮州城東南の臨済院に住した。
その法語を集録した「臨済録」がある。諡号は慧照禅師。(~867)」
とあります。
『禅学大辞典』で詳しく調べると、
「中国臨済宗の開祖。曹州(山東省) 南華の人。俗姓は邢氏。
幼少より賢く秀でており、長じては孝行をもって聞えた。
出塵の志をもって落髪・受具し、講席に列して経律論を究めたが、ついに済世の医方として退け、南遊して筠州(江西省)黄檗山の希運に参じた。
居ること三年、行業純一で知られたが、首座の指示で、希運に仏法の大意を問い、三度打ちすえられた。
のち高安灘頭の大愚に参じ、仏法無多子として希運の禅をとらえ、希運に嗣ぎつつ、つねに大愚を称えたとされる。
北上して鎮州(河北省)に到り、子城の東南の滹沱河に臨む地に小院を構え、臨済院と称した。」
と説かれています。
柳田聖山先生の『臨済ノート』には、
「いったい、臨済という名は、臨済院という小さな禅院の名から来ている。
さらに、臨済というのは、こんにちの中国河北省の中央部を、西から東に流れるコダ河という川の渡し場に臨むという意味である。」
と書かれています。
「済」という字を諸橋轍次先生の『大漢和辞典』で調べてみると、
「わたる、わたり、わたし、渡場」という意味が書かれています。
柳田先生は、
「この地方には、他にも臨済という地名があるが、かつて臨済院のあったところは、現在の石家荘市の北方に近い正定に当たる。
臨済院は当時、この地方の実力者であった王常侍という人が、義玄のために建立したものである。
それは、かつて唐朝の国立寺院であった竜興寺とか開元寺とかいう大寺院とは異なって、あくまで一つの地方寺院として、私的な性格をもっていたと思われる。
したがって、この禅院にいたことによって、臨済とよばれる義玄もまた、国家の保護や既成教団の伝統、といったような背景なしに、あくまで一人の自由な仏教者として、独自の宗教的信念を鼓吹したのであり、むしろそうすることによって、人々に偉大な感化をあたえたのである。
いうならば、かれは当時の仏教における自由人であり、一匹狼であった。」
と説かれています。
柳田先生の『臨済録』には次のように訳されています。
「師匠は、本名を義玄と申す。在所は古の曹州、南華の出身で、家の姓は邢氏である。
幼少よりずばぬけて、 あたまがよかった。 髪をおろして出家の戒律をおさめると、禅の道をもとめた。」
と書かれています。
後に『臨済録』には、
「わしなども当初は戒律の研究をし、また経論を勉学したが、後に、これらは世間の病気を治す薬か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっぺんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。」
と説かれていますように、はじめは地道に戒律を学び、仏教の学問をされていたのでした。
『臨済録』に影響を与えている経典は、
法華経
華厳経
維摩経
華厳合論
大乗成業論(唯識)
法苑(ほうおん)義林章
などです。
大乗成業論は唯識の教えです。
法苑(ほうおん)義林章は、中国法相宗初祖基(き)(窺基、632―682)の著作。
唯識教学における主要な問題を解説したものなのです。
祖堂集には、
大愚和尚を訪ねた臨済禅師のことを次のように書かれています。
「夜中まで大愚の前で、『瑜伽論』を説き、『唯識論』をかたって、さらに私見をまくしたてる。」
とありますように、熱心に唯識を学んでいた青年僧だったことが分かります。
『臨済録』には、
「黄檗の膝下にあること三年、修行の仕方が、一本気であった。」
と書かれています。
先輩の僧が感心して、まだ若僧だが、他の大勢とちがうところがある、見込みがあると思ったのでした。
そこで、ここに来て、どれくらいになると聞きました。
「三年です」という臨済禅師に、黄檗禅師のところに質問に行ったかと聞きます。
ないという臨済禅師に、「仏法的的の大意」とはどのようなものかと聞きなさいと教えられます。
「仏法的的の大意」というのは、入矢先生は、「仏法の根本義」(岩波文庫『臨済録』)と訳されています。
衣川先生は、「仏法の偉大なる意義」(新国訳大蔵経 禅宗部 六祖壇経 臨済録)と訳されています。
的的は、「あきらかではっきりしているさま」です。
臨済禅師は三度質問をして、三度とも黄檗禅師から棒で打たれてしまったのでした。
失意のうちにありながら、黄檗禅師の指示に従って大愚和尚を訪ねました。
黄檗はどんな教えを説いたのかと聞く大愚和尚に、臨済禅師はありのままを報告します。
「黄檗はそれほど老婆親切で、君につくしてへとへとになった」という大愚和尚の一言に臨済禅師も気がつきました。
そこで、黄檗の仏法多子無しと言ったのでした。
入矢義高先生の『臨済録』では、「多子無し」とは「ダイレクト、直接的」という意味であるとして「黄檗の仏法は端的だったのだ」と訳されています。
大事なのは、「仏法の一番明確な教えは、今あなたがそうやって質問していることだ、今目の前にいるあなた自身がすばらしい仏法の現れなのだ」と気づかせることだったのです。
これ以上直接的な指導はないのです。
実にくだくだしい説明も何も無しに端的を示してくださったのだと気がついたのでした。
それからの臨済禅師は、今までとはうって変わって自由自在にはたらき、お説法をなさったのでした。
横田南嶺