慈悲が欠けている
あらゆる命ある者はみな仏の心を持っているということです。
ではその仏の心とはどういうものかというと、それは慈悲の心であると説いています。
ですから、あらゆる命あるものは皆慈悲の心を持っているということになります。
ところが、自我を中心とした見解、誤ったものの見方、我欲に遮られてしまって、その慈悲の心が顕れていないというのが、お互いの実際なのであります。
サンガ新社から、サンガジャパンプラスの第二号が送られてきました。
今回は、私がその中の記事に出ているわけではないのですが、贈呈していただいたのでした。
目次には、
スペシャルトーク
釈徹宗×名越康文「やっかいな自分と向き合う心の技法」
特集1 慈悲で花開く人生
アルボムッレ・スマナサーラ 「経典に学ぶセルフ・コンパッション」
プラユキ・ナラテボー×柳田敏洋 「慈悲(抜苦与楽)とアガペー(神の愛)」
松本紹圭×熊谷晋一郎 「個を深めて仲間と共に近代を生きる」
シュプナル法純 「ポーランドの禅僧が見た現代の戦争、そして仏教による平和への道」
ディーパンカラ・サヤレー 「慈しみの瞑想」
とあって、特集1だけでも満載であります。
更に特集2もあって、
パーリ経典と仏教瞑想
アルボムッレ・スマナサーラ×熊野宏昭 「仏教瞑想とマインドフルネス」
蓑輪顕量 「ブッダの身心の観察」
プラユキ・ナラテボー 「ブッダのアーナーパーナ・サティ瞑想法」
などなどがございます。
更に
特別企画 ティク・ナット・ハンから続く道というページもあって、島田啓介先生が書いてくださっています。
また更に
特別企画 Wisdom 2.0 Japan
ジョアン・ハリファックス老師の「世界を変えていくコンパッション」というのもあるのです。
『慈悲と瞑想』という特集ですが、とにかく、よく一冊にこれだけの内容を盛り込むことができるものだと思うほどの充実ぶりです。
出版社の方々の意気込み、熱意が伝わります。
パラパラ開いていると、坂村真民先生の詩が目に入りました。
あなたに合わせる手を
だれにも合わせるまで
愛の心をお与え下さい
どんなに私を
苦しめる人をも
すべてをゆるすまで
広い心をお授け下さい
という「ねがい」と題する詩であります。
どなたが、真民先生の詩を取り上げてくださったのかと思ってみると、シュプナル法純さんでした。
ポーランド人の禅僧でいらっしゃいます。
サンガジャパンプラスの今号は、どの記事も深い内容で読み応え十分にあるのですが、この法純さんの記事は実に深いものであります。
「戦争はいつもあった」という小見出しが目に入りました。
「ロシアのウクライナ侵攻前は戦争がなかったと言う人もいますが、それは間違っています。
まず、ロシアのウクライナとの戦争は、二〇一四年に始まりました。
決して二〇二二年の二月が始まりではないのです。
次の段階に入っただけです。
さらに、それ以前も世界中で戦争はもちろんありました。
シリア、アフガニスタン、イラン、そしてアフリカの各地でも、どんどん人が殺され続けました。でもメディアは政治的な理由で、今回ほど報道していません。」と書かれているのです。
そして、「私たち一般人は、二〇二二年二月までは戦争はなかったが今は戦争があると思いがちですが、戦争はいつもありました。
すべてが報道されていなかっただけです。
ですから、プーチン大統領のような嫌な悪人はいないと強く訴える人はいますが、例えば今までアメリカの対外政策によってどれほど各国の人が死んだかということは、どうも言いたくないのでしょうね。」
と書かれています。
こういうことも、私などは、新聞の報道などだけでものを見ていますので、大いに反省させられます。
次に「仏教は世の中の戦争を終わらせるためのものではない」という見出しがあります。
法純さんは、「もともと仏教というのは、世の中の戦争を終わらせるためのものではありません。
「苦しいときの神頼み」ではないのです。
なぜなら、仏教は自己の調練だから、自己を修める道だからです。
何を修めるのかと言うと、自分の中の争いを修めるのです。
仏教を使ってウクライナを守りましょう、あるいはロシアをなんとかしましょうということはできません。」
とはっきり説いてくださっています。
これは大切なところです。
「エンゲージド・ブッディズム」という、社会的な問題に対して仏教の立場から発言し、行動する運動があります。
法純さんは、「仏教はもともとエンゲージド・ブッディズムではありません」と明言されています。
「もちろん、ボランティアなどは社会のレベルでは素晴らしいことだと思いますし、社会を向上させることもいいことです。
しかし、そもそも、これが仏教の課題ではないし、仏教の心理学では、良いことをするのは一番危ないと言われています。
なぜかといえば、そこには「私が良いことをしています」という意識が働いているからです。
そのような「私」は、同時に、社会の場の上では、さまざまな役割が出ていることは当然ですが、そこに仏教を入れてみようとすれば、ズレが起こりかねません。」と実に的確な指摘をなさっています。
そして更に、
「一番危ないのは、この「俺」なのです。
ですから、良いことをしているときは、それを恥ずかしがりながらやりなさい。
悪いことをしたら反省の可能性があるが、良いことをすると、逆に慢心が動き、みんなに見せたいでしょう。
だから、恥ずかしいと思いながらやるぐらいが、ちょうどいいのではないでしょうか。そういう自覚も大事だと思います。」
と説かれています。
このことは修行の上においてもとても大事な自覚であります。
この記事には、お釈迦様が生まれ育った釈迦族が、コーサラ国に滅ぼされるときの話や、殺人鬼と言われたアングリマーラのことが説かれているのです。
不殺生は慈悲の裏側なのだと指摘されて、次のように説かれています。
「慈悲を育てるには、慈悲の瞑想のような方法があります。
スマナサーラ長老も昔から指導されているそうですが、私も時々、慈悲の瞑想を坐禅会などで皆さんと一緒にやっています。
それは、今のいわゆる禅に一番欠けているところだと鈴木大拙先生も言われました。
本当に禅宗に一番欠けているのは慈悲です、と。」
という言葉は、実に禅宗のもっとも気をつけるべきことを指摘してくれています。
そしてそのあとに何と、
「それを意識されているのか、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺老師はよく慈悲の心を伝えられていて、それは素晴らしいと思います。」
と私の名を出してくださっているので、驚きました。
有り難いことですが、慈悲がもっとも足らないと日々反省している私なのであります。
横田南嶺