広い仏心の世界
どの子にも涼しく風の吹く日かな
飯田龍太さんの俳句を思います。
この三月に、朝比奈宗源老師の『覚悟はよいか』が、ゴマ書房から復刻されたことをお知らせしましたが、更に春秋社から朝比奈老師の本が二冊復刻されました。
それぞれにオビを書かせてもらいました。
『仏心』には、「死とは何か?その答えがこの本にある」
『人はみな仏である』には、「禅の極意をこれほどまで平易に説いた本を知らない」と書いたのでありました。
それぞれ四月十九日に発行されています。
これら三冊の朝比奈老師の本については、次回の日曜説教でお話します。
『人はみな仏である』という本の出版には、私も深く関わっていましたので、今回の復刊をとてもうれしく思っています。
この本は、白隠禅師の坐禅和讃を講話されたものなのです。
本のはじめに、朝比奈老師は、
「第一句の「衆生本来仏なり」ー、
こんな素晴しい言葉というものは、わしは無いと思う。
これは禅宗式なんですが、ずばりっとそのものを放り出して来た。
白隠さんは「衆生本来仏なり」!
これが受け取れたら、みんな成仏なんです。
そんな大安心が得られる。」と説かれています。
いくつか、心に響く言葉を引用してみます。
「禅というものは難しいといえば、いくらでも難しいけれども、(老師、卓一下) このカチンと聞いているのは、おそらくあなた方もカチンと聞いているところに、学問のあるなしも、若いも年寄も、男性も女性もないんです。
(卓一下) ただカチン。 (卓一下) この何らの意識も分別も加える余地のない心境を解っていただくと、十方三世の世界もわかる。
この(卓一下)カチンはカチン切りです。」
この「カチン」というのは、机を叩いている音なのですが、どういうことかというと、朝比奈老師は、
「仏心ということが本当にわかっていただいたならば、それは「自性即ち無性」ということとわかりさえすればよいのです。
自分を追究して、自性の無性に徹しなければいかんと申しました。」
自性の無性であることを言っているのです。
朝比奈老師が皆の前で「バン!」と大きな音をさせておいて、
「あの「バン」とやったときですね、あなた方聞くまいと思ってもバンとお聞きになったろう。
あの「バン」を聞いた刹那を、ひとつよくよく睨んで下さい。
バンといった以外に何があるか?
「バン」、ここには何の理屈もさしはさむ余地はない。
カチンと言えばカチンきりです。ここをひとつ、よく味わって欲しい。」
と説かれています。
自性を証するとは、どういうことかというと、
「いわんや自分で坐禅をして、「直に自性を証すれば」。
自分の性自性とも法性ともいって、お釈迦さまの悟りの世界を現す言葉がたくさんあると、私がいつも申し上げているうちのひとつです。
「自性 法性仏性 法身 涅槃 真如 実相如来 仏心」
まあ、まだいくらでもある。
これ等いろんな言葉の中から私はいちばんわかりよく 「仏心」と申し上げているんです。
「直に自性を証すれば」というのは、じきにということは直接ということでありますけれども、本当に仏心を悟ったならばということです。
ここにAさんとかBさんとかこうして皆居りますが、そのAさんの自性、Aさんの仏心といってもいいが、「オレが」を徹底してみれば「オレが」というべきものはなくて、実は全宇宙を包むその広大な仏心しかないんです。
いい換えたらこれがAの心、これがBの心というものは本当はない。
ないから素晴らしい。 ここが面白いところです。
自分が無かったら頼りないだろうというが、無いからこそ素晴らしい。
禅というものはこういう世界を窺おうとするもんです。
繰り返しますけれども、お釈迦さまが悟られて、「わしの前に死なない世界が現われた」といってお喜びになり、 そして一生を説法なすった。」
と説かれている通りなのです。
しかし、そんな広大な仏心の中に生かされていながら、お互いは我見を張り合っているのです。
朝比奈老師は、
「周遊切符と昔はいっていましたが、一枚の切符でぐるぐる廻れる旅行券がありますな。
あれみたいなもので、われわれはなかなか悟りの世界へは容易に行かれないけれども、この天上、人間、餓鬼、修羅、畜生、地獄、この六道なら終始勝手にフリーパスで通れるんです。どこへでも、朝から晩まで行ったり来たりしとるんですよ。
ちょっと地獄へ行ったと思うと、また天上界へも出るし、ちょっと天上界へ出ていい顔つきをしたと思うと、たちまち修羅界へ出て真赤な顔もしてみるし、といったようなふうにわれわれの生活はあるわけです。輪廻というのはぐるぐる廻るということ。」
と説かれている通りです。
六道輪廻といいますが、なにも死んでからの話ではなく、一日のうちにもで、地獄の世界や餓鬼の世界をさまよっています。
そこで朝比奈老師は。
「これから脱出する方法は、仏心の信仰に覚めて、自分達の怒りも、腹立ちも、物惜しみする心にも実体のないことを知って、それに囚われないように、それの支配に任せないように、自分の生活を調整する。
宗教はそうした基本的なものを掴んで、 そしてこの世の中のいろいろな条件を調整する。
その力を与えるものだと思います。
ただ外から締めつけて、他律的にわれわれの生活に秩序を保たせようとするんじゃなくて、もっと大きい世界をみる。
子供のしていることを、われわれ大人は見ちゃいられんという。
これは、大人の世界が子供の世界を越えた広さを持っているからです。
人間の世界でも、下らないことに悩んだり苦しんだりしている人に、「そんな事何でもないことですよ」と人間ができた人はいいますけれども、悩んでいる本人にとってはそうではない。そこのところの違いが大きいのです。
宗教というものは、そこのところを「衆生本来仏なり」、ここに仏心の信仰を要し、それからまたわれわれがその信仰に基づいて、不断の修養を必要とするということになるわけであります。」
と説いてくださっているのです。
また「衆生本来仏なり」について、「仏とは我のない人のことであります」と端的に示してくださっています。
「ついででありますが、私のいう仏心の世界を法身とも申します。いいかな、これは我のない世界をいう。
こうという主観のはからいのない世界を法身。」
そして仏心の世界とはどんなものかというと、
「仏心は宇宙を包んでいます。 空間的にいえば全宇宙が仏心です。
空間的に全宇宙を包んでいる仏心ですから、時間的にも無始無終ですね。 初めもなければ終りもない。永遠に生き通しです。
われわれはこの広い空間に生れて来て、広い空間に住んで、広い空間で息を引き取って行くように、われわれ人間はその悟りの仏心の中に生まれて来て、その仏心の中に住んで、仏心の中で息を引取っていくんです。
ですから、私どもの世の営みの一切は、仏心の中です。」
広い仏心の世界の中にわたしたちは、生かされているのです。
子どもたちもこの広い世界で、のびのび育って欲しいと願うばかりであります。
横田南嶺