涙の花まつり
静岡市静岡仏教会の花まつりの講演に招かれたのでした。
まだ桜の花も残っていて、よいお天気でありました。
会場は静岡市民文化会館でありました。
花まつりの法要は、舞台の上に花御堂を設けて、仏教会の会長さまが導師、副会長さまが脇導師で、静岡市内の和尚様方の出仕で、厳粛に行われました。
私も参列させてもらいました。
会場の裏では、多くの和尚様方が、いろいろと準備などをしてくださっていました。
花まつりは、三部構成で、第一部が花まつり法要です。
第二部が私の講演、第三部が、片腕義手のバイオリニスト伊藤真波さんの演奏となっていました。
法要のあと、私が六十分「慈悲のこころを」と題して講演しました。
お釈迦様の生誕にまつわる話から始めて、お釈迦様の教えの中でも最も中心となる慈悲のこころについて話をしました。
農耕をなさっていた国でありましたので、お釈迦様のお父様浄飯王が、ある年の春、耕耘の祭に黄金の鋤で耕耘の式を行われました。
まだ出家する前のお釈迦様も一緒に城を出で、野に耕す農夫の様を見ていました。
ふと犂の端に掘りかえされた虫を、何処からともなく飛んできた一羽の鳥がすぐに啄み喰うたのを見られ、慈悲深いお釈迦様のお心は強く痛みました。
この話からご幼少の頃から、いのちあるものに対する思いやりの深い方であったことがわかります。
その後出家して難行苦行六年の後に悟りを開かれました。
大乗仏教では、お釈迦様の悟りの内容は、あらゆるいのちあるものはみんな仏の心を持っているということでありました。
この仏様のこころを持っているとはどういうことか、私はいつも申し上げている三つの力であると話をしました。
一つめは、生きる力・生きていく力です。 明日へ向かって生きていこうという力です。
二つめは、耐え忍ぶ力です。
この世の中に起こることすべては耐え忍ぶことができると、私は信じています。
三つめは、人のことを思いやる力です。
自分のことだけではなく、周りのこと、人のことをいくつしみ思いやる力を私たちは持って生まれてきているのです。
この三つの力を私たちは生まれながらに持っていますと話をしておいて、その三つの力を存分に発揮して生きておられるのが、このあとヴァイオリンを演奏してくださる伊藤真波さんですと、次の方につなげて壇を降りたのでした。
控え室に戻ろうとすると入り口のところで、伊藤さんが待ってくれていて恐縮しました。
こういう芸術の方が演奏なさると、当然着替えなどがありますので、控え室は別ですし、終わった後も多くの人と会われたりして、講師が挨拶することもできない場合があります。
伊藤さんに挨拶をして、「私本日は露払いを務めました、前座を務めましたので、あとはどうぞよろしくお願いします。」と申し上げると、伊藤さんは「場を温めてくださって有難うございます」と仰ってくださいました。
その初対面の挨拶だけで、とても謙虚で素直で明るい方だと分かりました。
片腕でどうやってヴァイオリンを演奏するのかと思っていましたが、義手がついていて、肩甲骨で動かして演奏なさるのです。
当日のパンフレットには、
「伊藤真波
静岡市葵区生まれ
静岡県立清水西高等学校卒業
私は交通事故で右腕を失いました
当時看護師を志すどこにでもいる20歳の女の子でした
突然の事故で今まで当たり前にあった生活を失いました
腕だけではなく、夢や希望を失った私にはどん底の人生しか待っていないと覚悟しました
しかし腕を失っても「幸せになりたい」 と心から思えるようになり前を向く決心をしました
社会復帰するまでのいくつかの不安や葛藤は 「夢や希望」があったことで乗り越えていけました。
片腕を失いこの人生二度と後悔したくない思いから小さい頃の習い事だったバイオリンをもう一度始めました
世界に一本しかない義手での演奏を聴いてください」
と書かれていました。
伊藤さんの演奏はトークを含めて三十分でしたが、その間私はずっと涙を流していました。
お話が素晴らしいし、そのお姿から、お声から演奏から響いてくるものが悉く胸打つのでありました。
伊藤さんは二十歳の成人式を前にして、交通事故で右腕を失ったのでした。
成人式のために着物も用意してくれていたらしいのですが、病院のベッドで迎えたのでした。
伊藤さんは、中学の頃から看護師を志していて、その事故の時も看護学校に行く途中だったのだそうです。
バイクに乗っていたというのです。
右腕を失い、お顔の損傷も激しかったらしいのです。
ベッドの上で絶望だったと言います。
何で自分だけこんなめにあうのかという思いでいっぱいでした。
友人からメールで励まされても、自分はもうみんなと同じ世界には戻れない、恋愛も結婚もできない、これからはひっそり隠れて生きていくしかないとネガティブなことばかり考えたそうなのです。
ご両親にも八つ当たりをされたと仰っていました。
お父様が、バイクを好きだったようで、その影響でバイクに乗っていたということでした。
お父様は、バイクをやめて、自分のせいで、娘の人生を台無しにしたと嘆いていたと知りました。
伊藤さんは、自分が嘆いてばかりいてはまわりを苦しめるだけだと気がついて、泣くのをやめたと語っていました。
これから前を向いて新しい人生を歩み始めようと決意して、義手をつくるために兵庫県神戸のリハビリ専門病院に転院したのだそうです。
そこで看護学校に復学するための義手をつくり、リハビリ病院で一年半訓練し、その後、看護学校に復帰したのでした。
そうして看護師国家資格にも合格して、神戸の病院で働き始めることができたというのです。
更になんと、リハビリ病院に移った頃に水泳を始めて、パラリンピックにも北京とロンドン、二度出られたのでした。
北京パラリンピックでは四位入賞を果たすことができたというのです。
それから幼い頃に習っていたヴァイオリンを再び始めてみようと思いたって、ヴァイオリンの弓の形をしたオンリーワンの義手をくってもらい、レッスンに通うようになったのだそうです。
いまは結婚され、お子さんもいらっしゃるのだそうです。
静岡市で生まれ育った伊藤さんは、この市民文化会館の舞台に上がるのが夢だったと仰いました。
その夢が今日かないましたと言っては、満場の拍手をいただいて演奏を始められました。
演奏の合間のお話もすばらしく、三十分はあっという間でした。
私は終始涙を流しながら、会場の片隅で聴いていました。
終わって私は会場を後にするときに、ああ、伊藤さんの前に話をしておいてよかった、前座でよかったとしみじみ思いました。
あの素晴らしいお話と演奏のあとでは、とても私の話などできるものではないと思ったのでした。
やはり実体験を話されるのが一番こころに響いて参ります。
思いがけなくも、こころに残る涙の花まつりでした。
横田南嶺