内を照らし外に輝く – 返照 –
正門を入ってすぐ左手にあるのが、「真人館」といいます。
私がいつも仕事をするのが総務課のある「栽松館」です。
その向かい側にあるのが、「返照館」といいます。
返照館は、昨年の花園大学創立百五十周年記念事業で建て替えたのでした。
真人館の真人は、『臨済録』にある言葉から来ています。
「赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。」
という言葉です。
入矢義高先生の訳では、
「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている」というのであります。
ほかにも図書館のあるのが無聖館、自適館や無文館というのもあります。
無文館には大きな坐禅堂があります。
楽道館というのもあって、これは私が命名した建物です。
こちらも創立百五十周年の記念事業の一環として完成したものです。
楽道館という名前は唐代の禅僧に伝わった南嶽懶瓚和尚の『楽道歌』が元になっています。
学生会館として使われると聞きましたので、「学問、芸術、スポーツなどそれぞれ道を好きになり、更に楽しんでほしいという思い」を込めてつけたのでした。
南嶽懶瓚和尚は、嵩山普寂の法嗣の明瓚で、懶瓚というのは、怠け者の明瓚和尚という意味です。
「外に向って工夫を覓むれば、総べて是れ癡頑の漢なり。」という言葉が『楽道歌』にあり、『臨済録』には「外に向かって工夫を作すは、総べて是れ癡頑の漢なり」となっています。
「自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である。」というのです。
返照館の返照にも同じような深い意味があります。
「回光返照」として使われますが、
『禅学大辞典』には、
「外に向かう心を翻して、内なる自己を反省し、本来の面目を明らめること。
道を他に求めることなく、自己の本性を照見すること。」
と解説されています。
「返照」は「日常の外に向かって求める心を内に向け、反省して自己の真実を求めること、もと夕日が照り返ることをいう。」のです。
入矢先生の『禅語辞典』には
「自らの内なる知慧の光で自らを照明すること。」と解説されています。
「返照」はというと、「はんしょう」と読んでいて、「夕日の照り返しをいうのが普通であるが、禅では自己に内在する本然の光を外へ輝き出させる意に用いる。」と解説されています。
「返照」という字を諸橋轍次先生の『大漢和辞典』で調べてみると、
「反照」ともいい、「夕日の光が西に入って反射すること。ゆうひかげ。夕日影。」と説明されています。
古い用例もあって、杜甫に「返照」という七言律詩もございます。
「返照」は、「はんしょう」とも読んで、夕日の照り返しの光を言います。
返照 江に入りて 石壁に翻り
帰雲 樹を擁して 山邨を失す
夕日の照り返しが川の面に射し込んで、岸辺の石壁に影が反射している。
山へ帰ってゆく雲が樹々にからみついて、山間の村も見えなくなったという意味です。
唐代の禅僧仰山禅師の語録にその用例をみることができます。
「仰山、衆に示して云く、汝等諸人、各自に回光返照せよ、吾が言を記すること莫かれ。汝等無始劫来、明に背いて暗に投じ、妄想根深うして、卒に頓に抜き難し。所以に仮りに方便を設けて、汝が麁識を奪う。黄葉を将て小児の啼くを止むるが如しと」
と、これは『碧巌録』九十三則の評唱にも引用されています。
山田無文老師の提唱から引用してみましょう。
「昔、仰山和尚も衆に示して言われておる。
「汝等諸人、各自に回光返照せよ」
皆ひとつ自分の内心に向かって、光を発見せよ。外ばかり見ておってはいかん。
その外へ向かっておる光を内側へ向けてみよ。
その内側の真理を発見させるためにわしは言うのである。
子供の泣くのを止めるのに、黄葉を与えるようなもので、わしの言う言葉は、めいめいが自分の心の中をさぐってみて分かるのであって、言葉そのものには意味はないのだ。
「吾が言を記すること莫かれ」
だから、わしの言うた言葉だけを暗記してはいかん。
わしの言うた言葉によって自分の心の中をさぐってみなさい。
「汝等無始来、明に背いて暗に投じ」
皆な無始劫来の迷いの中におる。
仏性に背いて、妄想煩悩の中に落ち込んでおるのだ。
本来持っておる如来の智慧徳相をくらまして、妄想執着の雲の中に落ちておるから、悟りが開けんのである。
「妄想根深うして、卒に頓に抜き難し」
その妄想執着の根が深いために、なかなかなくならんのである。
その妄想を取ってやろうとしてもなかなか取れんのである。
「所以に仮りに方便を設けて、汝が識を奪う」
識は妄想だ。ただ坐禅せよ、回光返照して、外を見ずに坐禅して内側を見ておれと言うても、なかなか妄想執着を断つことができんから、仮りに方便を設けるのである。
趙州の無を見て来いと、これが方便である。
その方便によってあらゆる妄想執着を奪ってやるのだ。
「黄葉を将て小児の啼くを止むるが如し」
ちょうど泣く子を黙らせるために銀杏の葉をやって、これが黄金だと言うのと同じことだ。
無そのものに価値があるのではない。
めいめいの煩悩妄想を断ち切る方便が無である。
分かってしまえば無もいらん。
いつまでも無に尻を据えておると、我もなければ世界もない、何もない、虚無主義だ。
さらに大きな迷いに入ることになる。こう仰山和尚も言われておる。」
『臨済録』には「返照」の用例は二カ所あります。
「汝、自ら返照して看よ。
古人云く、演若達多頭を失却す、求心歇む処即ち無事、と。」
とあります。
「自らの光を外に照らし向けてみよ。古人はここを、『演若達多は自分の頭を失って探し廻ったが、探す心が止ったら無事安楽』と言っている。」
と入矢先生は訳されています。
ここでは、『禅語辞典』にある「禅では自己に内在する本然の光を外へ輝き出させる意に用いる」という解釈をとっています。
演若達多の故事は、註釈には
「『首楞厳経』四にある話。
演若達多が、鏡に映る自分の美貌を楽しんでいたが、或る日じかに顔を見ようと思ったが見えないので、鏡中の像は悪魔の仕業であると早合点し、怖れて町中を走りまわったという。自己を見失った愚かさの喩え。」
とあります。
もう一カ所は、
「所以(ゆえ)に祖師言く、咄哉丈夫、頭を将って頭を覓むと。你言下に便ち自ら回光返照して、更に別に求めず、身心の祖仏と別ならざるを知って、当下に無事なるを、方に得法と名づく。」
というところです。
現代語訳は
「だから祖師も言った、『こらっ!立派な男が何をうろたえて、頭があるのにさらに頭を探しまわるのだ』と。この一言に、君たちが自らの光を内に差し向けて、もう外に求めることをせず、自己の身心はそのまま祖仏と同じであると知って、即座に無事大安楽になることができたら、それが法を得たというものだ。」となっています。
返照は、外ばかり見ていた眼を転じて内に向けることに解釈されています。
いろいろの解釈を参照しても、返照は内に眼を向けることとして説かれていますが、自己に内在する本然の光は、そのまま外へ輝き出させることにもなるのであります。
自ら光ることは、同時に外を照らすことでもあります。
横田南嶺