信じるも謗るも仏縁
いつも明るくお元気な椎名先生に接することこちらも元気をいただく思いです。
この頃は、呼吸法のセミナーも再開されて、お忙しい日々とのことでした。
とりわけ、海外の方で呼吸法を熱心に習われる方が多くなっているというのです。
今や世界の人から注目されているのでしょう。
椎名先生のますますのご活躍をお祈りするばかりです。
共著の『ZEN呼吸』の本の話題になって、いろいろとお話していました。
多くの人に読まれ、感謝されているのでありますが、時には誹謗のお手紙もいただくとのことでした。
これは私なども同じですよと申し上げました。
喜んで感謝してくださる方もいらっしゃれば、批難してくださる方もいらっしゃるものです。
これが自然の姿でもあります。
しかしながら、厳しい言葉を頂戴するとこちらの気持ちも滅入るものです。
椎名先生もこの頃はようやく慣れてきましたと仰っていました。
私などでもたくさんのお手紙を頂戴しますが、多くは感謝の言葉でありますものの、厳しい言葉もあっていろいろあるものなのです。
大事なことは、こちらの心を痛めるようにしないことです。
世の中にはいろんな考え方の人がいらっしゃるのだと受けとめることです。
坂村真民先生が、
一人でもいい
一人でもいい
わたしの詩を読んで
生きる力を得て下さったら
涙をふいて
立ちあがって下さったら
きのうまでの闇を
光にして下さったら
一人でもいい
わたしの詩集をふところにして
貧しいもの
罪あるもの
捨てられたもの
そういう人たちのため
愛の手をさしのべて下さったら
と詠っておられますように、もしもたった一人でも生きる力を得てくれたなら、それで十分なのであります。
九条武子さんが
百人(ももたり)のわれにそしりの火はふるも
ひとりの人の涙にぞ 足る
と詠っておられる通り、もしも一人でも涙を流してくれる人がいたならば、たとえどれほど多くの方に謗られても十分なのです。
毎月黒住教の方から、教化誌を送っていただいています。
四月に送っていただいたものに、こんな話がありました。
「教祖神は、ご布教の帰り、 砂川を渡ろうとされたときに、丸木橋がぐらっと揺れて大変心を痛められた。
そこで、橋をお渡りになると、すぐ土手に土下座をされた教祖神は、御分心を痛め奉ったことはまことに畏れ多いことと天拝され、深くお詫びになったという。
誰も見ていない場所で、誰も気づかない自分自身の心の問題をかくまで厳しく修行せられた御瀬踏みを、現代のお道づれは肝に銘ずべきである。」
と書かれていました。
「御分心を傷めな」という教えが黒住宗忠にはございます。
お互いの心というのは、神様から分けていただいた心だというのです。
ですから、この心を傷めるようなことをしないようにという教えなのです。
謗られて、こちらが気落ちしたりすると、この心を傷めてしまうことになります。
また私がいつも思っているのは、まず人に対して謗りの手紙などを書くと、謗りの文字や言葉に本人自身が触れることになって、その心を傷めてしまうことになります。
私の本や話が縁になって、その方の心を傷めさせてしまうのは申し訳のないことです。
ですからまずはそのお手紙に向かってお詫びしているのです。
『菩薩願行文』という経文には。
「たとえ自分に対してまるで仇敵になって、この私をののしり苦しめるようなことがあっても、これは自分が遠い過去から知らず知らずに人を傷つけてきた、わがままな思いから造ってきた罪業が、いまこうしてののしり苦しめられることによって消えてゆくのだと思って、何を言われても何をされても頭を下げて、むしろ拝んで言葉を丁重にしてへりくだってゆけば、私たちの心に蓮の花が花開き、蓮の花に仏さまが現れ、どこもかしこもそこが浄土になり、どこにいてもそこに仏さまの光明が光り輝きます。」
という意味の言葉が書かれいます。
罵り、謗られることによって、お互いの過去の罪業が消えてゆくのです。
そう思えばこちらにとっては有り難いことなのです。
『朝比奈老師の一転語』に、朝比奈宗源老師が
「慈海宋順版「普門品」後記の願文というのを見たら、
囘斯妙因 施及一切
見聞信毀 倶會真際
この妙因をめぐらして、施して一切に及ぼし、見聞信毀、ともに真際を會せん
と、なんと……。
信ずるも、謗るも、ともに仏縁だ。」
と書かれています。
信じることだけでなく、謗られるということも仏縁になるのです。
『法華経』に勧持品という章があります。
そのなかの言葉を紹介します。
現代語訳を正木晃先生の『法華経』(春秋社刊)から引用します。
「世にも尊きお方が、完全な涅槃にお入りになったのちの、恐怖に満ちた悪しき時代においても、わたしたちはこの法華経を説きひろめましょう。
智恵のない愚か者たちは、わたしたちにむかって、悪口雑言を吐き、罵倒し、刀や棒を振りまわすかもしれません。
しかし、わたしたちはめげません。」
というのです。
なかには、
「あるいは、森林のなかで襤褸をまとい、人里離れたところで、自分だけがほんとうの修行に励んでいると妄想して、ほかの人々をばかにする者もいるでしょう。」
という記述もございます。
いつの時代にも真剣に修行なさっていると、他の人を許せなくなることがあるものです。
『法華経』には、
「こういうたぐいの連中は、憎しみの心をいだき、いつも世俗の栄達ばかりを求め、森林のなかできびしい修行をしているようなふりをして、わたしたちをいじめようとするでしょう。」
と説かれています。
昔も『法華経』を学んでいる方は謗られ、攻撃されてきたのだと分かります。
「しかし、わたしたちは釈迦牟尼如来を真に敬愛していますから、どんなにいじめられても、堪え忍びます。」
という姿勢が大事です。
「汚れた悪しき時代には、ありとあらゆる恐怖が世を支配するでしょう。
悪魔が人間のすがたをとって、わたしたちをののしり、いじめ、はずかしめるでしょう。
わたしたちは釈迦牟尼如来をかたく信じて、忍耐という鎧を身にまとうでしょう。 この法華経を説くためなら、どんな困難も耐えましょう。
わたしたちは身体も生命も惜しみません。わたしたちが惜しむのは、このうえなく正しい教えのみです。」
と説かれているのです。
最後の言葉の原文は、
「我、身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」というものです。
いろんなご縁をいただくおかげで、こちらも謙虚に学ばせてもらえるのであります。
横田南嶺