気迫だ
ゆっくりと坐禅について、そして腰を立てるということについて語り合っていました。
もうそろそろと思って話を終わろうとすると、既に四時間近くも経っていて驚きました。
時の経つのも忘れて語り合っていたのでした。
奘堂さんは「これまで「坐禅」と思っていたすべてのことが吹き飛ばされたような思い」を語ってくれたのでした。
夏目漱石の『私の個人主義』という「直筆の原稿」コピーを見せてもらいました。
「けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。
手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。
それでもう少し浮華(ふか)を去って摯実(しじつ)につかなければ、自分の腹の中はいつまで経ったって安心はできないという事に気がつき出したのです。」
という言葉でした。
「浮華」というのは「うわついていて、華やかなこと。外面だけ華やかで実質のないこと」です。
孔雀の羽根を身に着けるという表現はよく分かります。
私たちは、地位や名声や、財産や学歴や、あるいは特殊な技能などを身につけて、この世を生きています。
それはあたかも孔雀の羽根を身に着けているようなものです。
奘堂さんは、私たちの坐禅さえも、私たちの孔雀の羽根になっていないかと問題を提起されました。
坐禅という、腰を立てて、背筋を伸ばしてきれいな坐相を保ったり、あるいは修行道場で何年坐禅したと言ってみたり、臘八という厳しい修行をするのだと言ってみたり、気がついたら、孔雀の羽根のようになっているのであります。
また奘堂さんが、高校三年生の時に同級生の方に言われたという、「最も大切なものを忘れている、それは気迫だ」の一言を示してくれました。
漱石の『私の個人主義』に
「もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他(ひと)の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随(ふずい)しているならば、)
しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。
いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。」
という一節があります。
この「始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならない」という言葉を強調されていました。
腰を立てるということは、腰骨をどうこうするとか、仙骨をどうこうするということではなく、まさに生きる姿勢であり、生きる気迫なのであります。
すべてを放ってただ立ち上がるという言葉を奘堂さんは何度も繰り返されるのですが、この立ち上がる気概が大切なのです。
私がまだ奘堂さんにお目にかかって間もない頃に、奘堂さんの前で、ディオニソスのまねをしたことがあったのでした。
その姿を見て、奘堂さんはディオニソスの気迫のこもった姿勢とは実にほど遠い姿に愕然として、それは自らにもあてはまることだと猛省されたというのであります。
その当時の私は、まだディオニソス像については、全く理解できていなかったのでした。
そこで形だけをまねてみたのだったのです。
今も失礼なことをしたと反省しています。
あれから何度も何度もお話を伺って、この頃ようやく少しわかりかけてきたところです。
それから印象に残ったのは芭蕉の句を取り上げてくださったことでした。
「吹きとばす 石は浅間の 野分かな」という句です。
浅間のふもとで激しく強い風のため、浅間山の小石までが吹き飛ばされているという意味でしょう。
野分は、秋から冬にかけて吹く強い風で台風や暴風などを言います。
芭蕉の『更科紀行』にある句であります。
この句は何度も推敲されていると知りました。
はじめは
秋風や石吹颪(おろ)す あさま山
という句だったのです。
これは、私のように俳句のことは全くわからない者でも、平凡な句だと分かります。
秋風ではじゅうぶんではないと思って、次には
吹颪(おろ)す あさまは石の野分哉
と詠んだのでした。
それを更に
吹落す あさまは 石の野分哉
に改めたのでした。
そして更に
吹落す 石をあさまの 野分哉
としたのでした。
吹き落とすでは、まだじゅうぶんではないと思って更に
吹きとばす 石はあさまの 野分哉
としたのです。
「落とす」に棒線を引いて消して、そこに「とばす」と書き入れている草稿を見せてもらいました。
更に「吹きとばす石を」を「吹きとばす石は」とした方が一層力のある言葉となります。
吹きとばす 石はあさまの 野分哉
というと、もう吹き飛ばされた石が目の前に勢いよく飛んできそうな迫力があります。
こうなると、この「野分」は単なる暴風ではないように感じます。
奘堂さんもこれは、「浅間山の外で吹き荒れている暴風(台風)」ではなく、浅間山自身の内、底から湧き上がり、すべてを吹き飛ばす「大噴火」を意味しているのではと仰っていました。
芭蕉自身は浅間山の噴火をまのあたりにしたわけではありません。
一五八二年 天正一〇年に浅間山が噴火して、京都からでも観測できたと伝えられていますが、芭蕉の生まれる六十年も前のことです。
それでも噴火の話は聞いていたことでしょう。
野分という台風などは経験していましたので、大噴火を思ったのだと推察します。
今現に残っている「石」は、浅間山の底から噴き出たマグマが冷えてできた石です。
この「石」は、まさに「浅間の野分即ち大噴火」そのものだという感激が句になったのではないかというのが奘堂さんの解説でした。
なるほど、句作というのは、大きな感激がもとになっていて、それをこういう風にして推敲して深められるのだと分かりました。
秋風や石吹颪(おろ)す あさま山
では、穏やかな感じですが、躍動感がありません。
私たちが、ただ教わった作法通りに形だけきれいに坐っている坐禅のような気がします。
吹きとばす 石はあさまの 野分哉
となると、すべてを否定され、たたきつけられて、大地の底から飛び上がってくる気迫が感じられます。
これではいけない、中腰でまごまごしていては何もならないという、この気迫、迫力こそが奘堂さんの目指す坐禅なのだと分かりました。
すべてを放って寝転がるところから、ただ起き上がるということも何度も繰り返して教わりました。
楽しい充実した時間でありました。
横田南嶺