生の飛躍
以下紹介しますと、
「佐々木奘堂さんが、いつもディオニソス像のすばらしさについて語ってくれます。
なかなか分かりにくいと思っていましたが、少しずつでも感じるものがございます。
ある雲水に、ディオニソス像をみて何を感じるのかと聞いてみたところ、躍動感を感じますと答えてくれました。
これは、坐禅においても必要のことです。
手を組み、脚を組んでじっとしているだけで、死人同様の姿ではなにもなりません。
昔の武士が、命をかけた戦いで真剣を抜いて構えたような気迫、お相撲さんが、土俵入りをする時のような迫力、これがなければなりません。
臨済禅師の語録にも、あるときの一喝は「踞地金毛の獅子の如く」とございます。
大地に、じっとうずくまっている獅子は、いつでも飛び上がる迫力を秘めています。
これは禅定の姿だと私は受け止めています。
そんな迫力を内に蔵して、坐るのです。
こういうところは、ディオニソス像から学ぶところであります。」
という文章であります。
パルテノン神殿にあったディオニソス像は、フィディアスとその工房による作と伝えられています。
フィディアスは紀元前490年頃から紀元前430年頃の方です。
奘堂さんは、十五歳の時に『ベートーヴェンの生涯』(ロマンロラン著)を読まれたのでした。
その中に、次の言葉があります。
「諸君がみずから意識しないときですら諸君は古代の諸彫刻作品の石の心臓に眠っている息を吸い込んでいるではないか。
フィディアスの感覚と理性と生命の火との調和を吸い込んでいるではないか。」
というのです。
西田幾多郎先生の『美の本質』もまた、奘堂さんが感動された文章です。
引用しますと、
「芸術的創造の本源はエラン・ヴィタールにあるのである。」
エラン・ヴィタールというのは、フランスの言葉で生の飛躍だそうです。
生物が内的衝動によって進化する生命の躍進力をいうそうです。
更に西田先生は、
「フィディヤスの鑿の尖(さき)から、ダ・ヴィンチの筆の端から流れ出づるものは、過去の過去から彼の肉体の中に流れ来った生命の流れである。
彼等の中に溢れる生命の流れは、最早彼等の身体を中心とする環境の中に留ることができないで、新なる世界を創造するのである。
ベルグソンは我々の幼時の人格は極めて豊富なるも、成長するに従って之れを捨てて行かねばならぬと云うが、現実に触れて捨て去らねばならぬ天才の豊富なる生命が、芸術的創作に於てその出路を見出すのである。
それは幻影かも知れない、併しそこには生命の大なる気息le grand souffle de lavieがある。」
と説かれています。
先日は、この生の飛躍を芭蕉の俳句から説いてくださったのでした。
お目にかかった後に、奘堂さんから奘堂さんなりの俳句の意訳を教えていただきましたので、紹介しましょう。
まず
「秋風や 石吹颪(ふきおろ)す あさま山」
という句ですが、これを奘堂さんは
「浅間山に秋風が吹いている。
浅間山の小石が秋風に吹かれて、下に運ばれていく。」
という情景を詠んだ句とみました。
そして
「吹落(ふきおとす) あさまは 石の野分哉」
の句は「先日の野分(台風)では、浅間山の石も吹き落すような大風が吹いたな。」という意味で秋風ではなく台風の情景を詠んだ句とご覧になっています。
更に、
「吹落す 石をあさまの 野分哉」
これは「かつて、浅間山が大噴火を起こしたが、これは「浅間の野分(台風)」とも呼べるだろうか。
浅間の大噴火(浅間の野分)が、大きな石をも吹き落した。」
というところで、これもまたその情景を詠んだ句であると言います。
秋風でも野分(台風)でも足らず、さらに大きな自然の力である大噴火(=浅間の野分)を思ったのでしょう。
そうして
「吹とばす 石はあさまの 野分哉」
となると、
「「浅間の野分」とも呼びうる、かつての大噴火で、マグマがあたり一帯を吹き飛ばした。
そのマグマや火砕流が、その後冷えて、今ここにある石となって残っている。
この「石」の他に大噴火があるわけではない、この石こそは、すべてを吹き飛ばす浅間の野分(大噴火)そのものだ!」
と奘堂さんは受けとめられたのでした。
芭蕉は直接浅間山の噴火を経験していませんので、野分になぞらえたのでしょう。
野分は、あさまの噴火そのものだというのです。
そこで奘堂さんは、その芭蕉句をもじって
「吹き飛ばす 石は生命(いのち)の野分かな」
と詠います。
「フィディアスが彫刻した石(大理石)に、私は着き貫かれた。
「私を突き貫くもの、これが命か」と突きつけられた。
この「石」に私が「坐禅」「仏教」と思っていたすべてを吹き飛ばされた。
すべてを吹き飛ばすこの石(フィディアスの彫刻)こそは、生命の野分(躍動)そのものではないか!」
というのであります。
生の飛躍あふれるフィディアスの彫刻に、いままで学んだ坐禅や仏教が吹き飛ばされた感動が伝わってきます。
先日もディオニソス像の3D画像を見せていただいて丁寧にご説明してくださいました。
そうしてみると、はじめは単にくつろいでいるだけの姿かと思っていたのが、実に生の飛躍に満ちたものだと分かるようになってきました。
形だけまねした坐禅では、生の飛躍からはほど遠いものであることは確かであります。
もっともディオニソス像の形をまねしても遠くして遠いところになってしまいます。
やはり自分の足で立ち上がる気概を持つことから始まるのであります。
横田南嶺